伝記
クララ・ボウは、1905年7月29日にニューヨーク市ブルックリンで生まれ、1965年9月27日に没したアメリカ合衆国の女優である。1920年代のサイレント映画で人気を博し、1927年の映画『あれ』で「イット・ガール」と呼ばれた。この時代の象徴であり、その代表的なセックス・シンボルとされる。
ブルックリンのプロスペクト・ハイツにある、老朽化した教会の上の殺風景な部屋で生まれた。両親にとって三番目の子で、二人の姉は乳児のうちに亡くなっていた。母サラは、医師から再び妊娠しないよう言われていたが、クララを身ごもった。出産の朝は、母と子がともに死を覚悟するほどだったと、のちに語っている。父ロバートは仕事が安定せず、クララが4歳半のころには職を失っていた。一家は1905年から1923年の間に14か所に住んだが、多くはプロスペクト・ハイツ内で、父はしばしば不在だった。母は16歳のときに窓から落ちて頭に重傷を負い、のちに、てんかんによる精神病と診断された。クララは幼いころから、母の発作の世話の仕方や、精神病的で攻撃的な発作への対処を覚えた。「子どものころ、母の面倒を見たのは私で、母は私の面倒を見なかった」と語っている。貧しく、着る物にも事欠き、他の少女たちには避けられたため、いつも男の子たちと遊んでいたという。伝記作家デイヴィッド・ステンによれば、母が施設にいたあいだに、16歳のクララは父から性的暴力を受けた。
クララは、そこから抜け出す望みを女優に託した。十代のときに雑誌の美人コンテストで優勝し、1922年に映画に出る機会をつかんだ。しかしその映画では、彼女の出た場面はすべて切られてしまった。同年の別の映画でデビューを果たした。母は、娘が映画の道に進むことを知ると、死んだほうがましだと言い、1922年2月のある晩には、眠っていた娘の喉に肉切り包丁を突きつけたという。クララは母を部屋に閉じ込めた。朝になると、母はその出来事を覚えていなかった。母は父によって療養所に入れられ、1923年1月5日、てんかんのために43歳で亡くなった。葬儀でクララは取り乱し、墓穴に飛び込もうとしたという。生涯、罪悪感にさいなまれた。
その一方でキャリアは上昇し、映画プロデューサーのB・P・シュールバーグに見出されて、お色気コメディに出演し、フラッパーとして人気を集めた。1927年の『あれ』で、健康的な色気を発散するデパートガールを演じて大ヒットさせ、同年の『つばさ』は第1回アカデミー賞の作品賞を受けた。ハリウッド一の高給取りとなり、1929年1月には、ひと月に4万5千通を超えるファンレターを受け取ったという。1929年にトーキーへの移行に成功したが、のちにブルックリン訛りの台詞が原因で人気が衰えたともいわれる。1930年代にはヘイズ・コードの導入で、お色気を売りにした映画にも厳しい規制がかかった。1931年に俳優レックス・ベルと結婚し、何度か復帰を試みたが、1933年の『フープラ』を最後に女優を引退した。ネバダ州に移り住んで牧場を営み、二人の息子をもうけた。1965年9月、60歳で心臓発作により亡くなった。58本の映画に出演し、うち11本を除いてサイレントだった。
同じ年に亡くなった人物
- ジョセフ・アーランガー (1965年没)
- フロル・コズロフ (1965年没)
- ギルバート・コルゲート (1965年没)
- ジェス・ダグラス (1965年没)
- ダニエル・フランク (陸上選手) (1965年没)
同じ地域に関係する人物
- ビッグ・ジョー・ターナー (1985年没)
- ジョルジュ・ドルリュー (1992年没)
- ビル・ピート (2002年没)
- ロス・マクドナルド (1983年没)
- ウィリアム・ダラント (1981年没)