HISTORICAL PERSON · 1984年没

アルフレッド・カストレル

フランスの物理学者。ブロッセルと共に光ポンピング法を開発し、原子の共鳴を研究する光学的手法で1966年にノーベル物理学賞を受賞した。

生涯
1984年没
死亡地
フランス共和国(ヴァール県 / バンドール)
出生地
フランス共和国(ゲブヴィレール)
出典
世界地図
フランス共和国(ヴァール県)

伝記

アルフレッド・カストレルは、1902年5月3日、フランス東部オー=ラン県のゲブヴィレールに生まれた物理学者である。1966年に、ノーベル物理学賞を受賞した。生まれたのは、アルザスが1871年からドイツ帝国に併合されていた時代で、家は質素なプロテスタントの家庭だった。第一次世界大戦中は、爆撃の危険があったゲブヴィレールから、母方の叔母の住むオルブールへ送られた。コルマールの学校に通ったのち、アルザスがフランスに戻った後の1920年に大学入学資格を得て、1年間の数学の特別準備学級を経て、1921年に高等師範学校に入った。1926年までそこで学び、物理学者アンリ・アブラハムやウジェーヌ・ブロックの講義で原子物理学に触れた。同時にパリ大学理学部にも通って、シャルル・ファブリやエメ・コトンらの講義を聴き、1923年に物理学と数学の学士号を得た。

1923年から翌年にかけては、過労と抑うつを理由に学業をいったん休んでいる。1926年には、物理学の教授資格試験に首席で合格した。まずミュルーズの高校で教え、次にコルマールの高校、さらにボルドーで教えたのち、1931年にボルドー大学のピエール・ドーレの助手となって、高等教育に入った。学生の実習を指導しながら博士論文を準備し、1936年にパリ大学理学部で審査を受けた。主論文は水銀蒸気の蛍光についてで、原子と光のあいだで角運動量が交換されることが、ゼーマン成分の偏光を説明することを示した。同年にクレルモン=フェランの講師となり、2年後の1938年にボルドー大学の正教授になった。

1941年にボルドーを離れ、ジョルジュ・ブルアの招きで高等師範学校に戻った。1945年にパリ大学理学部の講師となり、のちに量子物理学と相対性の講座の正教授に任命された。1952年には個人資格の正教授となり、ジャン・ブロッセルと共同で、のちにヘルツ分光研究所となる研究グループを創設した。この研究所は、1994年に二人の創設者の名を冠した。ブロッセルとは、原子と光の共鳴的な相互作用を研究し、原子を励起するために光のエネルギーを用いる「光ポンピング法」を開発した。この技術は、レーザーやメーザーの開発にとって重要となった。クロード・コーエン=タヌジの博士論文を指導したことでも知られる。1958年には、国立科学研究センターが新設した原子時計研究所の所長にも任じられ、1962年から理論応用光学研究所の所長を務めた。1964年にはフランス科学アカデミーの会員に選ばれた。

1966年に「原子のヘルツ波共鳴を研究するための光学的手法の発見および開発」でノーベル賞を受け、のちに1979年にはヴィルヘルム・エクスナー・メダルも受賞した。光ポンピングの技術は1950年に考案され、多くのフランス内外の物理学者がその開いた道を進んだ。1968年には国立科学研究センターの研究主任となり、1958年から1972年までフランス光学委員会の会長も務めた。政治的、道徳的な発言でも知られ、二言語教育の支持者でもあった。幼いころの言葉であるドイツ語で詩を書き、詩の作品を残した。1984年1月7日、バンドルで世を去った。

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