伝記
ビセンテ・アレイクサンドレは、1898年4月26日にスペインのセビリアで生まれた詩人で、1977年にノーベル文学賞を受賞した。27年世代の詩人の一人である。父シリロ・アレイクサンドレ・バリェステルはバレンシアの出身で工兵隊の大尉を務め、母エルビラ・メルロ・ガルシア・デ・プルネーダはラ・コルーニャの出身であった。二人は1894年にマドリードで結婚したのち、セビリアに移り、父はアンダルシア鉄道会社で働いた。一家は軍の補給部の建物で、母方の祖父母と暮らした。家族全員が、そして詩人本人も、昔から頑固で危険な病弱に苦しんだ。姉エルビラは3歳で亡くなり、1899年に妹コンセプシオンが生まれ、1902年に生まれた弟フェルナンドは1904年に亡くなっている。
1901年に母方の祖父が退職し、一家はマラガに移って、父は鉄道会社の本社で働いた。ビセンテは私立の学校に通い、同級生には詩人のエミリオ・プラドスがいた。子供のころに最初に贈られた本は、グリム童話であった。1908年には、父に連れられてバルセロナの鉄道の会議に行き、ランブラス通りの書店で初めて自分で本を買った。祖父は文学を特に愛好してはいなかったが、ベッケルに二度会ったことがあるという話を孫に聞かせ、ベッケルの詩集を読むようにと渡した。祖父の書庫では、コナン・ドイルやホメロス、シラー、ガルドスらの作品を読むことができた。1908年6月1日には中等教育の予備試験に合格した。夏には、マラガの海辺の地区にある家で過ごし、浜辺を楽しんだ。1909年3月、肺の病を患った父が乾燥した気候の都市に移りたいと考え、マドリードへの転勤を願い出て、一家はマドリードに引っ越した。マドリードでは、ガルドスの小説『ドクトル・センテーノ』や貧しい人々を描いた『慈悲』を読み、生涯ガルドスを敬愛した。自転車でテレジアノ学院に通い、校長とともにマドリードの王立天文台を訪れている。1910年の夏はミラフローレス・デ・ラ・シエラで過ごした。
マドリード大学で法律を学んだ。主に散文詩を書いていた初期の詩は、高度にシュルレアリスム的であり、地球や海を表す象徴を用いて自然の美しさを称えるものだった。初期の詩の多くは悲しみに満ちており、これは、情熱を失い、自由な精神をなくした人々を見た彼の気持ちを反映している。初期の詩集には、1933年の『破壊または愛』や、1935年の『大地の情熱』がある。『破壊または愛』で、1933年に国民文学賞を受けた。1944年の『楽園の影』では、仲間、友情、精神の結合を主題に据えた。後期の詩集には、1954年の『心の歴史』や、1962年の『広大な領域で』があり、後者でこの年に批評家賞を受けた。1950年にはスペイン王立アカデミーの会員となった。1984年12月、マドリードで死去した。日本では、2007年刊の『ロルカと二七年世代の詩人たち』に、17篇の詩が翻訳されている。
同じ年に亡くなった人物
- アンセル・アダムス (1984年没)
- エステル・ウィンウッド (1984年没)
- フェリックス・ソボレフ (1984年没)
- 三宅二郎 (1984年没)
- カルロ・ゼッキ (1984年没)
同じ地域に関係する人物
- Janos Nemeth (1988年没)
- フェルナンド・レイ (1994年没)
- Carlos Blanco (2000年没)
- マリアナ・デ・アウストリア (1696年没)
- トニー・レブランク (2012年没)