HISTORICAL PERSON · 1983年没

レイモン・アロン

フランスの社会学者、哲学者、政治学者。高等師範学校でサルトルと出会い生涯の友でありライバルとなった。フィガロ紙の論説委員を務め、国際政治や戦争論で優れた議論を展開した。

生涯
1983年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 4区)
出生地
フランス共和国(6区)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

レイモン・アロンは、1905年3月14日、パリで生まれたフランスの社会学者・哲学者・政治学者・ジャーナリストである。裕福なユダヤ人の一家の息子で、家はロレーヌ地方の出であった。1924年に高等師範学校に入り、のちに生涯の友人でありライバルとなるジャン=ポール・サルトルと出会った。同窓には、マルー、フリードマン、カンギレム、ニザンらがいて、これほど頭の良い人々が、狭い場所にいたことはなかったと語ったという。優秀な学生で、教授資格試験に合格したが、卒業するころには、何年も無駄に過ごして、ほとんど何も学ばなかったという内面の危機に陥った。

1930年から1933年までドイツに留学した。最初はケルン大学の講師として、のちにベルリンの奨学生として過ごし、ナチスの台頭を目の当たりにした。ドイツ留学中に現象学と出会い、のちにサルトルに現象学を伝えたことでも知られる。帰国後はル・アーヴルの高校で教え、1934年には社会資料センターの書記になった。ドイツの社会学についての最初の本を書き、哲学の博士論文を1938年に提出した。それがトゥールーズ大学の講師の職につながった。第二次世界大戦が始まると空軍に参加したが、フランスの敗北後はイギリスに渡った。ロンドンでは、自由フランス軍の機関紙の編集に携わり、偽名で記事を書いた。

1945年、「死ぬほど悲しい」パリに戻ってジャーナリズムに身を投じた。サルトルの雑誌やカミュの新聞『コンバ』に短期間関わったのち、1947年から1977年までは新聞フィガロの論説委員を務めた。1945年と1946年には、マルローの顧問も務め、1947年から1953年までド・ゴールの運動に参加した。1950年7月に娘のローランスがダウン症で生まれ、同年12月には、ロンドンで生まれた二女のエマニュエルが6歳で白血病により亡くなり、二つの悲劇に深く打ちのめされた。政治に深入りしたため、ソルボンヌ大学への就任は10年遅れ、1955年からそこで、産業社会や階級闘争、政治体制、国際関係、社会学の歴史などの有名な講義を行った。国立行政学院やパリ政治学院、高等研究実習院でも教え、のちにコレージュ・ド・フランスの教授を務めたが、病気により退いた。1977年からは報道週刊誌エクスプレスで筆をふるった。

戦後のフランスでは、さまざまな論争に加わった。ドイツとの和解や、ドイツの再軍備、アルジェリアの独立を支持し、スターリン主義とその残虐さを正当化する人々に反対し、1968年5月の熱狂にも冷ややかだった。フランスの学生運動の活動家のあいだでは、「アロンとともに正しいよりも、サルトルとともに間違った方がいい」と言われていたことがある。国際政治や戦争論に関する卓越した議論でも知られ、著作には、『現代ドイツ社会学』『知識人の阿片』『社会学的思考の流れ』『戦争を考える』などがある。『回想録』は、『政治の誘惑』と『知識人としての歳月』の2巻で日本でも紹介された。

アメリカ芸術科学アカデミーの外国人名誉会員に1960年に選ばれ、1983年にはエラスムス賞を受けた。この年の10月17日に世を去った。

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