伝記
レイモン・アロンは、1905年3月14日、パリで生まれたフランスの社会学者・哲学者・政治学者・ジャーナリストである。裕福なユダヤ人の一家の息子で、家はロレーヌ地方の出であった。1924年に高等師範学校に入り、のちに生涯の友人でありライバルとなるジャン=ポール・サルトルと出会った。同窓には、マルー、フリードマン、カンギレム、ニザンらがいて、これほど頭の良い人々が、狭い場所にいたことはなかったと語ったという。優秀な学生で、教授資格試験に合格したが、卒業するころには、何年も無駄に過ごして、ほとんど何も学ばなかったという内面の危機に陥った。
1930年から1933年までドイツに留学した。最初はケルン大学の講師として、のちにベルリンの奨学生として過ごし、ナチスの台頭を目の当たりにした。ドイツ留学中に現象学と出会い、のちにサルトルに現象学を伝えたことでも知られる。帰国後はル・アーヴルの高校で教え、1934年には社会資料センターの書記になった。ドイツの社会学についての最初の本を書き、哲学の博士論文を1938年に提出した。それがトゥールーズ大学の講師の職につながった。第二次世界大戦が始まると空軍に参加したが、フランスの敗北後はイギリスに渡った。ロンドンでは、自由フランス軍の機関紙の編集に携わり、偽名で記事を書いた。
1945年、「死ぬほど悲しい」パリに戻ってジャーナリズムに身を投じた。サルトルの雑誌やカミュの新聞『コンバ』に短期間関わったのち、1947年から1977年までは新聞フィガロの論説委員を務めた。1945年と1946年には、マルローの顧問も務め、1947年から1953年までド・ゴールの運動に参加した。1950年7月に娘のローランスがダウン症で生まれ、同年12月には、ロンドンで生まれた二女のエマニュエルが6歳で白血病により亡くなり、二つの悲劇に深く打ちのめされた。政治に深入りしたため、ソルボンヌ大学への就任は10年遅れ、1955年からそこで、産業社会や階級闘争、政治体制、国際関係、社会学の歴史などの有名な講義を行った。国立行政学院やパリ政治学院、高等研究実習院でも教え、のちにコレージュ・ド・フランスの教授を務めたが、病気により退いた。1977年からは報道週刊誌エクスプレスで筆をふるった。
戦後のフランスでは、さまざまな論争に加わった。ドイツとの和解や、ドイツの再軍備、アルジェリアの独立を支持し、スターリン主義とその残虐さを正当化する人々に反対し、1968年5月の熱狂にも冷ややかだった。フランスの学生運動の活動家のあいだでは、「アロンとともに正しいよりも、サルトルとともに間違った方がいい」と言われていたことがある。国際政治や戦争論に関する卓越した議論でも知られ、著作には、『現代ドイツ社会学』『知識人の阿片』『社会学的思考の流れ』『戦争を考える』などがある。『回想録』は、『政治の誘惑』と『知識人としての歳月』の2巻で日本でも紹介された。
アメリカ芸術科学アカデミーの外国人名誉会員に1960年に選ばれ、1983年にはエラスムス賞を受けた。この年の10月17日に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァルター・シュテンネス (1983年没)
- デズモンド・バグリィ (1983年没)
- Theodoros Stephanides (1983年没)
- ニコラウス・ペヴズナー (1983年没)
- シャラフ・ラシドフ (1983年没)
同じ地域に関係する人物
- アントワーヌ・シェジー (1798年没)
- Sakine Cansiz (2013年没)
- トマソ・カンパネッラ (1639年没)
- エデム・コジョ (2020年没)
- メド・オンド (2019年没)