HISTORICAL PERSON · 1982年没

ハンス=ウルリッヒ・ルーデル

ドイツ空軍の急降下爆撃機の操縦員。独ソ戦でソ連戦車500両以上を撃破し、黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章をただ一人受けた。戦後はネオナチ活動家と見なされた。

生涯
1982年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / ローゼンハイム)
出生地
ポーランド共和国(グジェンディ (ドルヌィ・シロンスク県)グジェンディ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ハンス=ウルリッヒ・ルーデルは、1916年7月2日にプロイセン王国東部ニーダーシュレージエンのコンラーツヴァルダウで生まれた、ドイツ空軍の軍人である。父ヨハネスはルター派教会の牧師で、その地域の教区長を務めた。インゲボルクとヨハンナという2人の姉がいた。8歳のころ、母マルタからもらったパラシュートの玩具で遊ぶうちに、空を飛ぶことに興味を持ち、パイロットを目指し始めた。父の任地変更のため転校が度々あり、ラウバンの人文系ギムナジウムでアビトゥーアに合格した。1936年12月、100倍の競争率を突破して、ベルリン近郊の空軍学校に士官候補生として入学した。戦闘機乗りを希望していたが、卒業生は全員が爆撃隊に回されるという噂と、ゲーリングの演説を聞いたことで、急降下爆撃隊に志願した。しかし実際には卒業生のほとんどが戦闘機隊に配属された。1938年6月に急降下爆撃航空団に配属されたが、のち偵察隊に転属し、1939年1月に長距離偵察飛行隊に移った。自伝によれば、これは中隊長が「偏屈者」の厄介払いのために転属させたのだという。

第二次世界大戦には、少尉として、ポーランド戦役に遠距離偵察隊員として従軍し、1939年10月11日に二級鉄十字章を受けた。1940年5月のフランス侵攻のときは、ウィーンの訓練航空部隊に副官として配属されていて、戦闘には加われなかった。のち急降下爆撃航空団に転属したが、技量未熟なパイロットとみなされ、1941年のバルカン侵攻やクレタ島侵攻でも、地上待機の予備パイロットだった。著書には、悔しさに男泣きに泣いたと書いている。この出来事が原因で、後に上官の休暇命令に背いてまで出撃を重ねるようになったと言われる。1941年6月23日、急降下爆撃機として初めて戦闘を経験し、7月18日に一級鉄十字章を受けた。ユンカース爆撃機のシュトゥーカを駆って、終戦まで東部戦線で戦い抜いた。1942年1月6日に騎士鉄十字章を受章し、1943年2月10日には、ドイツ空軍のパイロットとして初めて出撃回数が1000回を突破した。1944年6月には2000回を超えた。

何度も乗機を撃墜され、捕虜になりかけ、そのたびに再び出撃しようとした逸話が数多く残る。1945年2月8日、5回目の負傷のとき、ソ連軍の40ミリ高射機関砲で右足を失った。後部銃手のガーデルマンが、気絶している暇があったら操縦桿を引けと怒鳴り続けたという。治療期間中にソ連軍を攻撃できないことのほうが悔しいと涙ながらに訴え、完治する前に病院を抜け出して、特注の義足をつけて戦線に復帰した。ヒトラーは、英雄の死が敵の宣伝に利用されることを恐れ、地上勤務への移行を再三要請したが、本人はすべて断った。確認できた戦果だけで、ソ連戦車500両以上と800台以上の車両を撃破し、全国防軍将兵の中で唯一、「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を授与された。最終階級は大佐で、部下からは「シュトゥーカ大佐」と呼び慕われた。

1945年5月7日にドイツの無条件降伏を知ると、残存部隊を率いて包囲網を脱出し、バイエルンのアメリカ軍の基地に着陸して投降した。戦争犯罪に問われることはなく、1946年4月に釈放された。1948年6月に、アルゼンチン政府の非公式の招待を受けて、国際赤十字の渡航文書を得て、南米に渡った。ナチ党員ではなかったが、戦後はメンゲレなど戦犯の庇護に協力し、ネオナチの前身といわれるドイツ帝国党の党員でもあったため、ネオナチ活動家と見なされている。1982年12月18日に没した。

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