HISTORICAL PERSON · 1982年没

アルトゥール・ルービンシュタイン

ポーランド出身のピアニスト。ショパンの演奏で同時代最高と評され、演奏家としての経歴は80年に及んだ。前半生は欧州、後半生は米国で活躍した。

生涯
1982年没
死亡地
スイス連邦(ジュネーヴ州 / ジュネーヴ)
出生地
ポーランド共和国(ウッチ)
出典
世界地図
スイス連邦(ジュネーヴ州)

伝記

アルトゥール・ルービンシュタインは、1887年1月28日、ポーランドのウッチのユダヤ人の家庭に生まれたピアニストである。8人兄弟の末子で、父は富裕な工場主だった。2歳のとき、姉のピアノのレッスンを聴いて、その演奏をすぐに再現してみせ、絶対音感とともに並外れた才能を示した。ハンガリーの高名なバイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムは4歳の彼の演奏に強い印象を受け、本格的に勉強する年齢になったら連れてくるよう家族に言ったという。1894年12月14日、7歳でモーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーンの作品でデビューした。10歳でベルリンに移って勉強を続け、13歳の1900年にベルリン交響楽団と初めて共演した。

1904年にパリを訪れ、サン=サーンス、ポール・デュカス、ラヴェル、バイオリニストのジャック・ティボーらと面会した。1906年にニューヨークのカーネギー・ホールで開いたリサイタルは聴衆に支持されたようだが、批評家からの批判が相次ぎ、4年間演奏活動を中止して技巧と表現を磨いた。その後、アメリカ、オーストリア、イタリア、ロシアを演奏旅行したが、1908年には、困窮と借金取りの取り立て、ベルリンのホテルの部屋の立ち退きが重なり、首吊り自殺を図って失敗している。1910年にはアントン・ルービンシュタイン国際ピアノコンクールで優勝したが、ユダヤ人だったために、審査員や聴衆から人種差別を受けたという。1912年にロンドンでデビューし、チェルシーに定住した。

第一次世界大戦中は主にロンドンで暮らし、1916年から1917年にかけてスペインや南米を旅して、熱烈な歓迎を受けた。同時代のスペインや南米の作曲家の新作を、多く初演した。1932年に指揮者エミル・ムイナルスキの娘アニエラと結婚し、4人の子をもうけた。この年はしばらく演奏生活を離れ、数年かけて演奏技巧とレパートリーを改善した。第二次世界大戦中はアメリカで暮らし、1946年にアメリカ国籍を取得した。

ショパンの演奏では、同時代でもっとも優れたピアニストの一人とされ、エチュードの一部を除くショパンの全作品を録音した。ラヴェルやドビュッシーなど20世紀初頭のフランスの作曲家や、スペインや南米の作曲家を紹介した最も早い一人でもあり、同胞のシマノフスキを最初に擁護した。1960年にはショパン国際ピアノコンクールの審査委員長を務め、優勝したマウリツィオ・ポリーニについて「我々の誰よりも上手い」と評したことで知られる。ハイフェッツ、フォイアーマンらとのピアノ・トリオは「百万ドル・トリオ」と呼ばれたが、本人はこの呼び名をひどく嫌い、ハイフェッツとは解釈などで揉めて、1950年を最後に共演しなかった。

録音には当初、あまり興味を持てなかった。1928年に電気録音のテストを聴いて音質に感激し、以後、積極的に取り組んだ。1929年にはブラームスのピアノ協奏曲第2番を世界で初めて録音した。1935年3月に初来日して日比谷公会堂で演奏し、1966年6月には再来日した。8か国語を流暢に話し、恐るべき記憶力の持ち主で、フランクの《交響的変奏曲》を演奏会へ向かう列車の中で、ピアノなしで暗譜したと自伝に書いた。1973年に自伝を執筆し、1976年、視力の喪失により引退を宣言して、ロンドンのウィグモア・ホールで最後のコンサートを開いた。1982年12月20日、ジュネーヴで就寝中に息を引き取った。95歳だった。遺灰は、本人の遺志により、翌年エルサレムに埋葬された。

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