HISTORICAL PERSON · 1982年没

ロマーン・ヤーコブソン

ロシアの言語学者。言語学、詩学、芸術などの分野で構造分析の開拓と発展に寄与し、音韻論から記号論まで幅広い分野を研究した。

生涯
1982年没
死亡地
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州 / ケンブリッジ)
出生地
ロシア連邦(モスクワ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州)

伝記

ロマーン・オシポヴィチ・ヤーコブソンは、1896年10月11日にモスクワで生まれたロシア人の言語学者である。裕福なユダヤ系の家に生まれ、父ヨシフ(オシプ)・アブラモヴィチは、オーストリア=ハンガリー出身の実業家であった。母アンナ・ヴォルペルトは、リガ生まれの化学者である。ごく幼いころから、諺の分析をはじめとして、言語への関心を育んだ。ラザレフ東洋語学院を1914年に卒業し、モスクワ大学の歴史文献学部でスラヴ諸語の文献学を学んだ。学生のころには、モスクワの前衛的な芸術と詩の活発な世界に参加し、1915年にはモスクワ言語学サークルの創設に加わって、1920年までその会長を務めた。1917年には、詩的言語の研究を目的とする文学団体の創設にも関わった。1918年に修士相当の学位を得ている。

当時の言語学の主流は青年文法学派で、言語の歴史と変遷を通時的に研究することだけが科学的な研究だとされていた。ヤーコブソンは、構造主義の礎を築いたとされるフェルディナン・ド・ソシュールの業績に触れ、言語の構造とその基本的な機能に焦点を当てた手法の開拓に力を注いだ。1920年はロシアの大政変の年で、博士号のための研究を続けるためにプラハに移った。プラハでは、トルベツコイ、ヴィレーム・マテジウスらとともに、のちに「プラハ学派」と呼ばれる学派の創設に加わり、1926年から1939年まで、プラハ言語学サークルの副会長を務めた。音声学と音韻論での多数の業績は、言語の構造と機能への関心をさらに発展させた。1930年にプラハ大学で、セルビア・クロアチアの民衆叙事詩の韻律についての論文で博士号を取得した。1933年からはブルノのマサリク大学で、ロシア文献学を教え、1937年にチェコスロバキアの国籍を得た。兄弟のミハイルは、ドイツ占領下のフランスから強制移送され、収容所で亡くなった。

1939年に第二次世界大戦が始まると、スカンディナヴィアに向けてプラハを去った。戦局が西へ進むとともに、1941年、ナチスの弾圧を逃れてニューヨークへ渡った。そこには知識人の移民の大きなコミュニティがあり、フランスの大学から逃れてきた人々もいた。1942年から1946年までは高等研究自由学院で言語学を教え、1943年からコロンビア大学の客員教授となった。ここで文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースと出会い、互いに教えあった。この交流は、のちに構造主義が思想界に新しい潮流を生む契機にもなった。ほかにフランツ・ボアズ、ベンジャミン・ウォーフ、レナード・ブルームフィールドらアメリカの言語学者や人類学者とも出会った。1949年にハーバード大学に移り、1969年まで、スラブ語とスラブ文学、一般言語学の教授を務め、1957年からはマサチューセッツ工科大学でも教えた。

1960年代の初めには、より包括的な言語への視点を強調するようになり、コミュニケーション科学にも関心を向け始めた。研究の対象は、音声学、音韻論、スラヴ文化史、詩学、情報理論、記号論などに及ぶ。主なアイデアは、言語類型論、意味論での二項対立、言語の普遍性であり、モリス・ハレらとともに、弁別素性の理論にも重大な貢献をした。1982年7月18日に没し、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学など多数の大学で名誉教授を務めた。

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