伝記
アンナ・フロイトは、1895年12月3日、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーンで、精神分析の創始者ジークムント・フロイトと妻マルタ・ベルナイスの、6番目で末の子として生まれた。ゆとりのある市民の家庭で育ったが、幼少期は比較的不幸だったようで、母とは親密な関係を築けず、カトリックの乳母ヨゼフィーネに育てられたという。長姉ゾフィーとは折り合いが悪く、「美」と「頭脳」の領域を分け合い、父に「ゾフィーへの昔からの嫉妬」と評された。一方で父とは特別に親密で、いたずら好きな子として知られた。1899年に父が友人に宛てた手紙には、「アンナはいたずらによってすっかり美しくなった」とある。思春期には父の仕事に早くから関心を示し、自宅で開かれたウィーン精神分析学会の集まりに同席することを許された。
ウィーンの女子中等学校コッタージ・リセウムで学び、多くの教科で順調に進んだ。フロイト家には外国人の客が絶えず、それに刺激されて英語とフランス語を身につけ、イタリア語も基礎を習得した。学校での良い経験から、最初は教職を志した。1912年にリセウムを離れ、冬にイタリアで長い休暇を過ごしたが、この時期は自信を失い、不安や将来への迷いを抱えていた。そうした悩みを父への手紙に書き、1913年の春には、父と一緒にヴェローナ、ヴェネツィア、トリエステを巡った。1914年の秋にはイギリスを訪れた。同行した父の同僚アーネスト・ジョーンズが彼女に恋愛感情を持っていると知った父は、娘は女性として扱われることを望んでおらず、2、3年は結婚を考えないという了解があると手紙に書いた。
1914年に教員試験に合格し、母校のリセウムで教える見習いになった。1915年から1917年は3年生から5年生の見習いとして働き、1917年から翌年は2年生の担任を初めて務めた。上司から「教える才能」を称えられ、1918年秋から4年契約で残るよう求められた。しかし1918年に結核にかかり、その後、病気を繰り返して、1920年に教職を辞した。父の励ましと助けを得て、精神分析の文献に親しみ、1915年の夏にはウィーン精神分析学会のために初めて翻訳の仕事をした。1916年から1917年はウィーン大学での父の講義に出席し、1918年に精神分析の訓練を進める父の支持を得て、10月から父の分析を受け始めた。最初の論文は1922年に発表し、1923年から分析家としての実践を始めた。同年、父が顎の癌と診断された。以来、仕事に支障を来すようになった父に代わり、国際精神分析学会の事務局長などを引き受けた。
1938年、ナチス体制のもとでフロイト家はウィーンを去らざるを得なくなり、彼女はロンドンで実践と児童精神分析の開拓的な仕事を再開した。1939年に父が没してからは、いっそう児童心理学に専念した。メラニー・クラインとの意見の違いから、イギリスの精神分析学会で論争を引き起こした。エリク・エリクソンなど弟子を多数育て、戦争が子供たちに与えた影響も調べた。幼児の防衛機制の研究が名高い。1952年にハムステッド児童治療講座・クリニックを設立し、治療と研修、研究の拠点とした。1982年10月9日に没した。
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