伝記
ヘンリー・フォンダは、1905年5月16日に生まれ、1982年8月12日に77歳で没したアメリカ合衆国の俳優、映画プロデューサーである。愛称はハンク。戦中・戦後の映画界で活躍した世界的な役者の一人で、子にジェーンとピーターがおり、いずれも同じ俳優の道に進んだ。
ネブラスカ州グランド・アイランドで、印刷工場を営むクリスチャン・サイエンス教徒の家庭に生まれ、生後6か月でオマハに移った。高校を卒業すると、新聞記者を目指してミネソタ大学でジャーナリズムを専攻したが、卒業はしなかった。母の友人の紹介で、20歳のときにアマチュア劇団に参加し、1925年に初舞台を踏んだ。巡業の舞台で活躍したあと、小売信用会社で働き始めたが、演劇の魅力が忘れがたく、仕事を辞めて演技の道を選んだ。そこで、のちの妻となるマーガレット・サラヴァンや、俳優志望のジェームズ・スチュアート、ジョシュア・ローガンらと出会う。1929年にブロードウェイにデビューし、1933年にローガンやスチュアートとともにニューヨークへ出て、同じアパートで暮らしながら、舞台に立ち、舞台装置家として働いて演技を磨いた。1935年に主役に抜擢された舞台の成功でハリウッドに招かれ、その映画版で映画デビューを果たした。
初の主演作の『浪費者』、ベティ・デイヴィスと共演した『黒蘭の女』、ジョン・フォード監督の『若き日のリンカン』などに、数年のうちに出演した。どんな難しい役もこなす力があり、フォードは安心して役を任せたという。20世紀フォックス社と7年の専属契約を結び、1940年には再びフォードと組み、スタインベックの小説の映画化『怒りの葡萄』に出演して、主人公トム・ジョードが当り役となり、初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされた。その後アメリカ海軍に入り、3年間第二次世界大戦に従軍して、武功を上げて勲章を与えられた。
戦後は1946年の『荒野の決闘』で、ワイアット・アープを演じた。本人が「数少ない納得できた作品」と語った映画である。フォックスの利益優先の方針や、赤狩りに嫌気がさして契約が切れると、長期契約を嫌ってブロードウェイに戻り、1948年にローガンの舞台『ミスタア・ロバーツ』に主演した。上演は1157回に及ぶヒットとなり、フォンダはトニー賞を受賞した。約6年ハリウッドを離れたのち、映画版でもロバーツを演じたが、フォードの演出に不満をもって非難し、怒ったフォードに殴られて決別した。これが二人の最後の映画となったが、映画は大ヒットし、復帰は成功した。1957年には『十二人の怒れる男』の映画化に、プロデューサーも兼ねて出演し、ベルリン映画祭で最優秀作品賞を獲得した。
1960年代には西部劇や戦争映画に多く出演し、1968年の『ウエスタン』では初めて、幼い少年まで射殺する残忍な悪役に挑んだ。1974年に心臓発作に襲われてペースメーカーを入れ、1979年には前立腺癌の手術を受けたが、70歳代になっても出演を続けた。1979年にトニー賞の特別賞を贈られ、1981年にアカデミー特別賞を受け、1982年には、娘ジェーンが父のために企画した『黄昏』で、キャサリン・ヘプバーンと老夫婦を演じ、アカデミー主演男優賞とゴールデングローブ賞を受賞した。授賞式のときは体調がひどく悪化しており、ジェーンが代わりに出席した。『黄昏』が遺作となり、5か月後に心臓病で亡くなった。故人の意思で葬式は行われなかった。5度結婚し、最後の妻シャーリー・アダムスとは死去まで連れ添った。
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