伝記
ジャック・タチは、1907年10月9日にパリ郊外のル・ペックで生まれたフランスの映画監督、俳優である。本名はジャック・タチシェフといい、父はロシア人、母はオランダ人であった。若いころからパントマイムの道を志し、得意だったスポーツをネタにした芸で知られた。1933年からミュージックホールの舞台に立ち、シドニー=ガブリエル・コレットから激賞を受けるなど人気を博した。映画の仕事は1932年から始めており、最初に話題になったのは、ルネ・クレマンが監督し、タチが脚本と主演を担当した短編『左側に気をつけろ』(1936年)である。ここでも得意のボクシングの芸を披露した。クロード・オータン=ララの2本の映画に出演したあと、1947年に短編『郵便配達の学校』を初めて監督し、脚本と主演も担当した。主人公の郵便配達人フランソワは、次の作品に活かされることになる。
本格的な長編デビューは、監督、脚本、出演を兼ねた『のんき大将脱線の巻』(1949年)である。アメリカ式の合理主義に影響された片田舎の郵便配達人が、自転車で駆け回り騒動を巻き起こすコメディだった。当初はモノクロで上映されたが、実は同時に、2色方式のトムソン・カラーによるフランス最初の長編色彩映画として全編が撮影されていた。技術的な困難のため公開時にはこのカラー版を公開できず、1995年に、タチの娘を中心に復元されて、日本でも劇場公開された。舞台は、タチがドイツ占領下のパリを逃れて住んだ小さな村サント・セヴェールで、その村が大変気に入って選んだのである。
長編第2作は『ぼくの伯父さんの休暇』(1953年)で、ユロ氏がフランスの浜辺の高級リゾートに現れ、8月のバカンス地に大騒動を巻き起こす。サイレント映画のような視覚的なドタバタに終始し、音楽と効果音が多くを占める独特の音響感覚に満ちている。アカデミー賞の脚本賞にノミネートされ、のちのヌーヴェルヴァーグの批評家からも絶賛された。この作品以降、のっぽで、小さな帽子をかぶり、吸い口の長いパイプをくわえ、レインコートと寸足らずのズボンをはいた無口なユロ氏の姿を確立し、以後は自作自演で登場した。第3作『ぼくの伯父さん』(1958年)は、パリの古い下町に住むユロ氏が、自動化されたモダンな住宅やプラスチック工場で悪戦苦闘するコメディで、1959年に第31回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した。授賞式のために訪米したとき、人気絶頂のジェリー・ルイスと会うか尋ねられると、むしろマック・セネットに会いたいと答えた。当時養老院で晩年を送っていたセネットは大いに喜び、バスター・キートン、ハロルド・ロイド、スタン・ローレルらサイレント喜劇の仲間を呼び集めて、タチを迎えたという。
第4作の大作『プレイタイム』(1967年)は、ほとんどプロットのない映画で、ユロ氏とアメリカ人観光客の一団が街をさまよう。タチは私財を投じ、ほぼ10年がかりでこの超大作に取り組み、近未来のパリを舞台にするため、高層ビルの林立する都市を一つ作り上げた。70ミリの高画質で撮影し、当時のフランス映画史上最大の製作費をかけたが、公開時には多くのマスコミから酷評されて興行的にも惨敗し、その失敗は一生ついて回った。2002年になってようやく、カンヌ国際映画祭の没後20周年記念上映のために、126分70ミリ版が復元された。第5作は低予算の『トラフィック』(1971年)で、遺作はスウェーデンのテレビ局のためのテレビ映画『パラード』(1974年)である。1982年11月4日、肺炎のため死去した。
同じ年に亡くなった人物
- フィリップ・K・ディック (1982年没)
- ヘンリー・フォンダ (1982年没)
- ウラジミール・ツヴォルキン (1982年没)
- チャールズ・ウォルタース (1982年没)
- 黄現璠 (1982年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジャン・マルティノン (1976年没)
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- エドモン・バンジャマン・ド・ロチルド (1934年没)
- レイナルド・アーン (1947年没)