伝記
ヴァルラーム・チホノヴィチ・シャラーモフは、1907年6月18日(旧暦6月5日)、ロシア帝国北西部ヴォログダ県の県都ヴォログダ市で生まれた小説家である。シャラーモフ家は、何代も続く聖職者の家系で、父チーホンは、アラスカでの布教の任を解かれ、ヴォログダのソフィア大聖堂の司祭を務めていた。2人の兄と2人の姉がおり、ヴァルラームは5人兄弟の末っ子だった。1917年のロシア革命は家族に深刻な影響をもたらし、聖職者の地位は地に落ちた。赤軍将校だった長兄は父に絶縁状を叩きつけ、赤軍兵だった次兄は戦死した。母は心臓を患って長く病床にあり、父は失明して、2人は後に貧困の中で亡くなった。成績優秀だったが、聖職者の息子であるために大学入学資格を得られず、モスクワの叔母の家に住んで皮革工場で働きながら受験勉強をした。1926年にモスクワ大学の法学部に入学した。
在学中に反政府デモや集会に参加し、1929年2月19日、「レーニンの遺言」を印刷するために地下印刷所へ出かけたところを待ち伏せされて逮捕された。これが生涯で4度に及ぶ逮捕の最初である。欠席裁判の「トロイカ」で有罪となり、ウラル山脈のふもとにあるヴィシェラ収容所へ送られ、1931年には製紙コンビナートの建設で強制労働をした。1932年に釈放されてモスクワに戻ると、雑誌記者をしながら創作を続け、ガリーナと結婚して娘をもうけた。1937年1月12日、前科を理由に2度目の逮捕を受け、「反革命トロツキスト活動」の罪で5年のコルィマ送りを宣告された。シベリア鉄道で45日をかけてウラジオストクの監獄まで移送され、同年8月に船でマガダンに着いた。1938年12月には3度目の逮捕を経験し、奥地の炭鉱や「スターリンのダッハウ」と呼ばれたジェールガラの懲罰監獄で強制労働をさせられた。
5年の刑期は1942年12月に満了したが、「戦争終結まで釈放を延期」されて釈放されなかった。1943年5月には密告で4度目の逮捕を受け、10年の刑を追加された。罪状は、「ヒトラーを誉め讃え、ブーニンを古典とする敵」というものだった。1946年、病院で知り合った医師の助けで補助医師の講習を受けて資格を得たことで、ようやく肉体労働から解放され、マガダンの中央病院に内勤の職を得た。1953年にスターリンが死去して囚人が解放されると、釈放され、モスクワに戻ったが、元囚人のため住むことができず、カリーニン州の泥炭採掘場で働きながら短編を書いた。1956年のフルシチョフの大量恩赦で名誉回復され、1957年に雑誌『モスクワ』の編集部に職を得て、再び詩作を始めた。
連作短編『コルィマ物語』は、1953年から1973年にかけて書かれた150編以上の短編の総称で、収容所での体験が織り込まれているが、基本的にはフィクションである。ソ連では出版されず、タイプ原稿のサミズダートとして密かに流通した。原稿は国外に流出して、1966年からニューヨークのロシア語雑誌に約50編が掲載された。作者は1960年代に聴覚を、1970年代後半には視力を失い、1982年1月18日未明、収容先の施設で生涯を閉じた。ソ連国内での発行は、死去から5年後の1987年に雑誌に3編が載ったのが初めてだった。
同じ年に亡くなった人物
- ベラ・スコバ (1982年没)
- リー・ストラスバーグ (1982年没)
- ナイオ・マーシュ (1982年没)
- アラン・バデル (1982年没)
- レオニード・ツィプキン (1982年没)
同じ地域に関係する人物
- ラウール・プーニョ (1914年没)
- パーヴェル・ブロンスキー (1941年没)
- Ivan Dykhovichny (2009年没)
- イサーク・レヴィタン (1900年没)
- ワシリー・ラザレフ (1990年没)