HISTORICAL PERSON · 1981年没

ウィリアム・ホールデン

アメリカの俳優。学生時代は細菌学者を目指したが演劇に傾倒し、劇団の舞台でスカウトされて1938年に映画入りした。1939年のデビュー作で早くも注目された。

生涯
1981年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / サンタモニカ)
出生地
アメリカ合衆国(オファロン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ウィリアム・ホールデンは、1918年4月17日にアメリカ合衆国イリノイ州に生まれ、1981年11月に没した俳優である。本名はウィリアム・フランクリン・ビードル・ジュニア。『第十七捕虜収容所』でアカデミー主演男優賞を受賞し、1950年代を通じて、興行的に最も信頼できるスターと称された。

父は産業化学者で肥料の分析をしており、母は教師だった。一家は、彼が3歳のころに、父が研究所の所長に就くためカリフォルニア州パサディナへ移った。弟が二人いる。父は健康づくりに熱心で、少年に宙返りやボクシングを教えた。高校ではアメリカンフットボールや野球に親しみ、乗馬や射撃、ピアノ、クラリネット、ドラムも身につけた。学生時代は細菌学者を目指していたが、ジュニア・カレッジに進んだころから演劇に傾倒し、パサディナ・プレイハウスで演技を学ぶ。『キュリー夫人』の端役で舞台に立っていたところを、パラマウントのスカウトに見出されて、1938年に映画入りした。芸名のホールデンは、パラマウントの重役に紹介されたとき、たまたま掛かってきた電話の相手の名を頂いたものだという。

1939年の『ゴールデン・ボーイ』で早くも注目された。ヴァイオリン奏者がボクサーになる物語で、共演したバーバラ・スタンウィックは、まだ無名だった彼の成功を助けようと、自分の時間を割いて鍛え、励ました。二人は生涯の友人となった。つづく『前科者』『我等の町』などで好調なスタートを切り、当時は「赤ん坊のような笑顔を持った隣家のお兄ちゃん」と呼ばれるアイドルスターとして売り出された。第二次世界大戦中は陸軍航空隊に属して、4年間の軍務についた。戦後は作品に恵まれず、しばらく低迷した。

転機は、1950年のビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』で、この作品でアカデミー主演男優賞にノミネートされ、アイドル路線から脱して演技派スターへ変わった。ワイルダーと再び組んだ『第十七捕虜収容所』で念願の主演男優賞を受賞し、『麗しのサブリナ』『ピクニック』『慕情』、デヴィッド・リーン監督の『戦場にかける橋』などに出演した。来日もしており、『戦場にかける橋』では早川雪洲と共演した。雪洲は無声映画のスターで、ホールデンは少年時代に、雪洲の豪邸に新聞を配達していたことがあるという。実業家としても知られ、野生動物の保護に熱心で、1970年代にはケニアに1260エーカーの土地を購入して保護区にした。1959年には税金対策で家族とスイスへ移り住んだ。

1941年に女優のブレンダ・マーシャルと結婚して3人の子をもうけたが、1970年に離婚した。1960年代終わりにアメリカン・ニューシネマの時代に入ると人気は下降気味になったが、『ワイルドバンチ』(1969年)、『タワーリング・インフェルノ』(1974年)、『ネットワーク』(1976年)などで活躍を続け、『ネットワーク』では再び主演男優賞の候補となった。晩年は事業の不振や呼吸器疾患などから、アルコール依存症だったという。1981年、自宅で酔ったまま絨毯に足を滑らせ、テーブルに頭をぶつけた傷からの出血で死去した。遺灰は太平洋に撒かれ、故人の意向で葬儀は行われなかった。翌年のアカデミー賞授賞式では、スタンウィックが名誉賞を受け、「私のゴールデン・ボーイ、あなたの願いが叶ったのよ」と語りかけた。

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