伝記
ヴァシーリー3世は、1479年3月25日に生まれ、1533年12月に没したモスクワ大公である。在位は1505年から没年までで、イヴァン3世の次男にあたり、母はモレアス専制公トマス・パレオロゴスの娘ソフィヤ、後のイヴァン4世(雷帝)の父である。洗礼名はガヴリール、修道名はヴァルラームといった。
イヴァン3世の長男が亡くなったのち、その子ドミトリーが1490年に推定相続人となり、のちに共同統治者とされた。ヴァシーリーと異母兄の遺児ドミトリーの間では、双方の母ゾエとエレナを中心に、激しい後継者争いが展開された。この争いには、正教会と「ユダヤ派」という異端との宗派対立も絡み、ヴァシーリーは正教会側に担がれていた。1498年ごろ、ドミトリーに対する陰謀が露見して失敗に終わったが、1499年3月にヴァシーリーは父に許され、ノヴゴロドとプスコフの大公の称号を与えられた。1502年にドミトリーとエレナは失脚して軟禁され、イヴァン3世は、その数日後にヴァシーリーを後継者に指名した。
1505年に即位すると、母ソフィヤが持ち込んだ習慣である花嫁コンテストを開いた。1500人ほどの高貴な娘の中から、ソロモニヤ・サブーロヴァを妻に選び、同年9月4日に結婚した。しかし子に恵まれず、1525年に府主教ダニールに婚姻の無効を宣言させて、彼女を修道院に幽閉した。1526年、タタールの血を引くリトアニア生まれの大貴族の娘エレナ・グリンスカヤと再婚し、後継者イヴァンと、ユーリーの二人の息子をもうけた。この離婚と再婚には聖マクシム・グレクが反対したため、投獄された。マクシムは、異端の出現による思想的混乱を収めようと、聖書や祈祷書を翻訳させるために、ヴァシーリー3世がギリシャのアトス山から招いた修道士であった。
即位後は父の領土併合と拡張の政策を継承し、未婚で没した二人の弟の領地を奪って、分割相続の弊害を抑えた。プスコフ共和国を1510年に、ヴォロク公国を1513年に、リャザン公国を1521年に、ノヴゴロド・セーヴェルスキー公国を1522年に、次々とモスクワ国家に組み込み、リトアニア大公国との戦いにも勝利してスモレンスクなどを獲得した。プスコフでは、ヴェーチェの鐘が取り外されてモスクワへ送られたと伝わる。南方ではカザン・ハン国に親モスクワ派のハンを立てた。外交も積極的で、神聖ローマ帝国、オスマン帝国、ムガル帝国に使節を送った。
内政では、地方行政を整備して直接統治に移行させ、財政や外交の専門家を登用して、非貴族出身者にも役人への道を開いた。大公の権力を何者にも制限されないものと考え、教会の支持を得て貴族の反対派に厳しく対処し、政策を批判した貴族の一部は追放され、処刑された。正教会との関係も強まり、ツァーリが教会を保護し、教会がツァーリの権力を支持するという形が定まった。モスクワのクレムリンには大天使大聖堂が建てられ、コロメンスコエには主の昇天教会が建てられた。1533年12月、敗血症で没し、幼いイヴァン4世のもとで大貴族が権力を奪い合う時代が続いた。狩猟や修道院巡礼を趣味とし、西欧の思想や技術にも関心を抱く開明的な君主だったという。
同じ年に亡くなった人物
- フィリップ1世 (バーデン辺境伯) (1533年没)
- メアリー・テューダー (フランス王妃) (1533年没)
- ルドヴィーコ・アリオスト (1533年没)
- フアン・デル・エンシーナ (1533年没)
- フレゼリク1世 (デンマーク王) (1533年没)
同じ地域に関係する人物
- Aleksandr Razumny (1972年没)
- ユーリー・オゼロフ (2001年没)
- セルゲイ・コルサコフ (1900年没)
- ミハイル・スースロフ (1982年没)
- ジガ・ヴェルトフ (1954年没)