HISTORICAL PERSON · 1531年没

フルドリッヒ・ツヴィングリ

スイス最初の宗教改革者で、改革派教会の創始者。チューリッヒで神聖政治を目指し、聖餐論でルターと対立。カトリック諸州との内戦で戦死した。

生涯
1531年没
死亡地
スイス連邦(チューリッヒ州 / カッペル)
出生地
スイス連邦(Wildhaus)
出典
世界地図
スイス連邦(チューリッヒ州)

伝記

フルドリッヒ・ツヴィングリは、スイス最初の宗教改革者で、スイス改革派教会の創始者である。1484年1月1日に生まれ、チューリッヒに神聖政治を確立しようとした。「聖書のみ」を信仰の基準とし、万人祭司説を説いた点ではマルティン・ルターと変わらなかったが、それ以外の部分ではルターと意見を異にした。ルターと対立したことや、志半ばで戦死したことなどから、ルターほどの知名度はない。

ザンクト・ガレン州地方のヴィルトハウスの村に、地元の有力者の子として生まれた。ウィーン大学とバーゼル大学で宗教学を学び、人文主義者としての学識を深めた。1506年、22歳で司祭に叙階されてグラールスの主任司祭となったが、フランス軍が徴兵活動を行うとこれに抗議し、グラールスを去った。1518年、チューリッヒの市参事会に招かれ、司教座聖堂の説教師となる。ギリシア語とヘブライ語を学んでいたツヴィングリは、人文主義者エラスムスから大きな影響を受けて聖書の原典研究に傾倒し、主日の説教の内容も聖書と教父の著作のみによるものにしようと決意した。人生の転機となったのは、1519年、コンスタンツ大司教の許可を得ずに贖宥状販売の説教を行っていたサンソンという説教師を批判する説教を行ったことである。この説教はコンスタンツ大司教の依頼によるもので、サンソンは教皇レオ10世によって職を解かれたが、ツヴィングリはこのころからカトリック教会との距離を意識し始めた。本人は否定しているが、ルターの活動も影響していたと考えられている。

キリスト教の刷新運動は、単なる宗教改革の枠を超えて社会変革を志向するものだった。市参事会に協力を求めると、参事会もこれに応じ、聖書に根拠のない教会制度の破棄が呼びかけられた。チューリッヒ市はカトリック支持派とツヴィングリ支持派に分かれ、数年にわたる争いの末、教皇制度と聖職位階制度は否定され、聖画・聖像は破壊され、修道院は閉鎖された。司祭独身制も撤廃されたが、これは教義上の理由というより、すでにアンナ・ラインハルトという未亡人と同棲していたからともいわれる。1525年4月13日の聖木曜日にはミサを廃止し、自ら考案した「主の晩餐」の式を初めて行った。人々にはショックだったが、ツヴィングリにとってはチューリッヒの宗教改革が完成した日となった。ルターとの違いとしては、聖体を単なる象徴と考え、共在説を唱えたルターと決定的に対立したことがある。また、礼拝からあらゆる音楽を廃止した。

改革を他のスイス諸都市にも広げようとしたが、より急進的なグループやルター派と対立し、国内の諸州もカトリック支持派とプロテスタント支持派に分かれていった。1528年のベルン討論会を経て、プロテスタント諸州は「キリスト教ブルフレヒト」を結成し、これに対抗してカトリック諸州は1529年に「キリスト教連合」を結んだ。1529年10月、ヘッセン方伯フィリップの提案でルターとマールブルクで会談したが、聖餐理解で決裂した。その後、ベルンがチューリッヒから離れても、ツヴィングリはカトリック諸州の経済封鎖に踏み切った。封鎖に耐えかねた森林五州は兵力を結集し、ツヴィングリは先手を討とうとチューリッヒ軍を率いて進軍したが、1531年10月11日にカッペルを急襲され、チューリッヒ軍は敗れ、ツヴィングリも戦死した。身に帯びていた兜と大小2本の剣は、チューリッヒ国立博物館に安置されている。

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