HISTORICAL PERSON · 1980年没

ジョン・ボーナム

イギリスのドラマー。ロックバンド、レッド・ツェッペリンのドラマーとして知られ、愛称はボンゾ。息子のジェイソンもロック・ドラマーである。

生涯
1980年没
死亡地
イギリス連邦(ウィンザー・アンド・メイデンヘッド / ウィンザー)
出生地
イギリス連邦(レディッチ)
出典
世界地図
イギリス連邦(ウィンザー・アンド・メイデンヘッド)

伝記

ジョン・ヘンリー・ボーナムは、1948年5月31日にイングランド中部ウスターシャー州の小都市レディッチで生まれたイギリスのドラマーで、愛称をボンゾという。ロックバンド、レッド・ツェッペリンのドラマーとして知られる。5歳でドラムを始め、空き箱とコーヒー缶で作った即席のドラムセットで、憧れのジーン・クルーパやバディ・リッチの叩き方をまねていた。10歳でスネアドラム、15歳でプレミア社製のドラムセットを手に入れ、地元のドラマーたちの助言を受けながら練習に励んだ。学校を出たあとは、建設業を営む父ジャックの下で見習い大工として働きながら、地元のいくつものバンドでドラムを叩いた。

1964年には、初めての本格的なバンド、テリー・ウェブ・アンド・ザ・スパイダースに加入した。同じころ、のちに妻となるパット・フィリップスとダンスパーティで出会っている。バーミンガムのバンドや、ヒット曲を出したザ・セネターズでも叩き、さまざまなバンドで経験を積むうちに、ドラムを本業にすることを決意した。パワフルな演奏でドラムヘッドを破ったり、音が大きすぎてクラブから演奏を止められたりして、イギリスで最も大きな音を出すドラマーと評判になった。そんなある日、旧友のロバート・プラントと再会し、プラントが在籍していたバンド・オブ・ジョイにドラマーとして加わった。デモは作ったがアルバムの発売には至らなかった。それでも、ここでの活動が人生の転機となった。

1968年、解散を目前にしたヤードバーズを率いていたジミー・ペイジは、新しいボーカリストとしてプラントを迎え、プラントの紹介でボーナムを知った。同年7月、北ロンドンのハムステッドの舞台で叩くボーナムを見たペイジは、即座に彼の加入を決めた。しかしボーナム本人は当初乗り気でなく、プラントとマネージャーのピーター・グラントが、電報や電話、直談判など40回近い説得を重ねて、ようやく加入に至った。ペイジ、プラント、ボーナムにジョン・ポール・ジョーンズを加えた4人は、1968年9月に北欧を回り、レッド・ツェッペリンと改名して、同年12月から最初のアメリカ・ツアーを行った。このツアーでバニラ・ファッジのカーマイン・アピスと友人になり、ラディックのドラムを紹介され、それ以降は一貫してラディックのセットを使った。当初はツーバスの構成だったが、練習中にあまりに音が大きいので、ジョーンズがバスドラムの一つを隠してしまい、以後はワンバスで叩くようになったという。

豪快で型破りな行動とは裏腹に、大変な愛妻家で、良き父でもあった。家庭を大事にしていたため、家族から離れて長いツアーに出るのを嫌い、ホームシックと重度の飛行機恐怖症を紛らすためにしばしば深酒をした。1980年9月24日、アメリカ・ツアーに向けたリハーサルのためスタジオへ向かう途中でパブに立ち寄り、ウォッカをシングルで16ショット相当、約473ミリリットル飲み干した。スタジオでも飲み続け、リハーサル後のウィンザーのペイジ宅のパーティーでも飲み、酔い潰れてベッドに寝かされた。翌日、ツアー・マネージャーとジョン・ポール・ジョーンズが、ベッドで死んでいる彼を発見した。死因は吐瀉物による窒息で、32歳であった。検死では、多量の飲酒による肺水腫が見つかり、アルコール以外の薬物反応はなかった。遺灰は10月12日に、農場近くのラショック教区墓地に埋葬された。バンドは12月4日に解散を発表した。息子のジェイソンも同じくドラマーとなり、ツェッペリンの再集結で演奏している。

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