HISTORICAL PERSON · 1980年没

ビル・エヴァンス

アメリカのジャズ・ピアニスト。印象主義的な和音と優美なタッチ、インタープレイで知られ、グラミー賞を7回受賞した。多くのミュージシャンに影響を与えた。

生涯
1980年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
アメリカ合衆国(プレインフィールド)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ビル・エヴァンス、本名ウィリアム・ジョン・エヴァンスは、1929年8月16日に生まれ、1980年9月15日に没したアメリカのジャズ・ピアニストである。モダン・ジャズを代表するピアニストとして知られ、音楽活動30年足らずの間に、リーダーとして50枚以上のアルバムを発表した。グラミー賞には18回ノミネートされ、うち7回を受賞している。印象主義的な和音と優美なタッチ、いち早く取り入れたインタープレイは、マイルス・デイヴィスやキース・ジャレットら、多くの音楽家に影響を与えた。

ニュージャージー州プレインフィールドに生まれ、母はルシン人の系統、父はウェールズ系であった。父は兄のハリーと同様に、幼い頃から息子に音楽を学ばせた。クラシックに親しんだあと、10代に入ると兄とともにジャズにも関心を持ち、アマチュアバンドでピアノを弾くようになった。1946年にサウスイースタン・ルイジアナ・カレッジに入り、音楽教育を専攻した。1950年に大学を卒業し、1951年から陸軍で兵役についたが、本人には不快な期間であったと伝えられる。この兵役中に、生涯にわたる悪癖となった麻薬の常用が始まったという。

1954年に兵役を終えてニューヨークに出ると、伝統的なジャズでも前衛的なジャズでも優秀なピアニストとして知られるようになった。この時期は主にサイドマンとして活動し、音楽理論家で作曲家のジョージ・ラッセルの録音にも参加した。リバーサイド・レーベルにスカウトされ、1956年に最初のリーダー作『ニュー・ジャズ・コンセプションズ』を残したが、当時の売り上げは800枚にとどまった。1958年にはマイルス・デイヴィスのバンドに短期間加わった。バンドで唯一の白人であったこと、ドラッグの問題、自らリーダーとして活動したい思いから、バンドを離れたが、デイヴィスの要望で、1959年のアルバム『カインド・オブ・ブルー』のセッションには参加している。このアルバムに自作の「ブルー・イン・グリーン」を提供したが、クレジットはマイルス作曲となっている。

1959年、ドラマーのポール・モチアンとベーシストのスコット・ラファロを迎え、歴史に残るピアノ・トリオを結成した。スタンダード曲の独創的な解釈と、メンバー同士の即興的な応酬が高く評価され、ピアノ・トリオの新しい方向性を示した。録音した『ポートレイト・イン・ジャズ』『エクスプロレイションズ』『ワルツ・フォー・デビイ』『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』の4作は「リバーサイド四部作」と呼ばれる。しかし1961年7月6日、ラファロは25歳で交通事故死した。エヴァンスは衝撃のあまりしばらくピアノにも触れられず、半年ほど活動から遠ざかった。やがて活動を再開し、1966年にはエディ・ゴメスを新しいベーシストに迎え、ゴメスは1978年まで務めた。

1973年に初来日し、東京、大阪、名古屋などで13日間のツアーを行った。その直後、約12年間内縁関係にあったエレイン・シュルツに別れ話を持ちかけると、エレインは地下鉄に投身自殺した。エヴァンスは大きなショックを受けたが、結局ネネット・ザザーラと結婚し、息子エヴァンが生まれた。1978年にゴメスらが去ると、最終的にはベースのマーク・ジョンソン、ドラムのジョー・ラバーベラが落ち着き、これが最後のトリオとなった。麻薬の常用はヘロインからコカインに移り、兄ハリーの自殺や家族との別居もあって、晩年の私生活は荒廃した。最後の録音は、1980年8月31日から9月8日にかけてのキーストン・コーナーでのライブである。

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