伝記
アルブレヒト・デューラーは、1471年5月21日にニュルンベルクで生まれたドイツ・ルネサンス期の画家、版画家、数学者である。同名の父は、ハンガリーからドイツ南部に移ってきた金銀細工師で、隣村の名からアイトーシと名乗り、1455年にニュルンベルクへ来て、のちに成功をおさめた。父は自分が親方となった1467年に、親方の娘バルバラと結婚した。デューラーはその第三子で次男であり、14人から18人のきょうだいがいた。ドイツ語名のデューラーは、ハンガリー語のアイトーシ、すなわち「扉」に由来するとされ、家紋には扉が描かれている。後見人のアントン・コーベルガーは、彼が生まれた年に金細工職人をやめて出版家となり、のちドイツで最も成功した出版家となった。
学校に2、3年通ったのち、彼は父から金細工と描写の基礎を学び始めた。父は金細工の修業を続けさせたかったが、彼は1484年、15歳で描画において早熟な才能を見せた。この年に銀筆素描で描いた自画像には、のちに「子供時代」と記している。その後、当時ニュルンベルクで大きな工房を構え、最先端の芸術家だったミヒャエル・ヴォルゲムートに弟子入りした。ヴォルゲムートが関わった『ニュルンベルク年代記』の挿絵にも、彼は手伝いとして加わった。見習い期間を終えると、ドイツの習慣に従って約4年間の遍歴の旅に出た。1490年に、北ヨーロッパの先進的な彫刻家マルティン・ショーンガウアーのもとを目指して旅立ったが、1492年にコルマールに着く直前に、ショーンガウアーは亡くなっていた。1494年7月7日にニュルンベルクへ戻るとすぐ、不在中に用意されていた縁談で、真鍮職人ハンス・フライの娘アグネスと結婚したが、夫妻に子供はできなかった。
ニュルンベルクに戻って3か月以内に、彼は単身でイタリアへ向かった。この時、ニュルンベルクでのペストの流行が影響したと伝わる。アルプスを越える際に描いた水彩の風景画は、西洋で最初の純粋な風景画とされる。ヴェネツィアでは、ジョヴァンニ・ベリーニを、最も年をとっているが今なおヴェネツィアで最もすばらしい芸術家だと記している。1495年に帰郷して自分の工房を持ち、イタリアで得たものを北方の様式に統合した。1498年には木版画集『黙示録』で成功をおさめ、ビュランを使うエングレーヴィングの技術も身につけて、傑作を生み出すようになった。1500年にニュルンベルクを訪れた画家ヤコポ・デ・バルバリから遠近法や人体均衡論を学んだと述べ、以後は独力で研究を続けた。1504年の『アダムとイヴ』は、彼のフルネームが署名された唯一のエングレーヴィングである。
1505年から1507年には再びイタリアに滞在し、ヴェネツィアのドイツ人組合から依頼を受けて『薔薇冠の祝祭』を描いた。1507年中頃にニュルンベルクへ戻り、1520年までドイツで暮らした。評判はヨーロッパ中に知れ渡り、ラファエロやベリーニらと連絡を取り合った。1511年には『大受難伝』と『マリアの生涯』の木版画シリーズを『黙示録』の第二版とともに出版した。1513年から1514年には、銅版画の傑作『騎士と死と悪魔』や『メランコリアI』を発表し、1520年から1521年にはネーデルラントにも滞在した。1516年には恩師ヴォルゲムートの肖像を、美化せずに描いている。リスボンの港で評判になったサイの話を友人から伝え聞いて描いた木版画『犀』は、彼自身がサイを見ていないため、実際にない二本目の角が背中に描かれている。1528年4月6日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ゲオルク・フォン・フルンツベルク (1528年没)
- ジャンフランチェスコ・ペンニ (1528年没)
- マティアス・グリューネヴァルト (1528年没)
- パルマ・イル・ヴェッキオ (1528年没)
- ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ (1528年没)
同じ地域に関係する人物
- マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター (1923年没)
- アレクサンドリーネ・フォン・バーデン (1904年没)
- ヴィルヘルミーネ・シュレーダー=デフリント (1860年没)
- ユリウス・フォン・ザックス (1897年没)
- ヨアヒム・フックスベルガー (2014年没)