伝記
マティアス・グリューネヴァルトは、16世紀に活動したドイツの画家で、ドイツ絵画史上もっとも重要な作品の一つ『イーゼンハイム祭壇画』の作者である。ルネサンスの巨匠デューラーと同世代だが、その様式は「ルネサンス」からはかなり遠く、系譜としては末期ゴシックの画家と位置づけるべきだとされる。「マティアス・グリューネヴァルト」という呼び名は17世紀の著述家が誤って付けたもので、これが誤りだと証明されたのは20世紀に入ってからだった。本名はマティス・ゴットハルト・ナイトハルトだとされる。
生年ははっきりしないが、活動歴から1470年か1475年頃、ヴュルツブルクの生まれと推定されている。制作年が判明する最初の作品は1503年の年記のある板絵で、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークにある『辱められるキリスト』もこの頃の制作とされる。生涯については断片的な事実しか伝わらないが、1501年にはフランクフルトから南東20キロのゼーリゲンシュタットで工房を経営し、画家のほかに鉱山技師や噴水技師としての手腕も発揮したとする記録がある。
1508年頃までには、アシャッフェンブルクに居城を構えるマインツ大司教ウリエル・フォン・ゲミンゲンの宮廷画家に迎えられていたと思われる。当時の芸術家には建築家を兼ねる者が多く、グリューネヴァルトもその一人で、1511年にはマインツ大司教によってアシャッフェンブルク城の宮殿整備建築監督に任じられた。代表作『イーゼンハイム祭壇画』は1511年から1515年にかけて制作された。この完成後は、ウリエルの後任のマインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクに仕えた。ほかの作品に、1517年から1519年の『シュトゥッパハのマリア』と呼ばれる聖母子像や、1524年から1525年の『聖エラスムスと聖マウリティウス』がある。
イーゼンハイム祭壇画は、現在アルザス地方コルマールのウンターリンデン美術館に収蔵されているが、もとは南方約20キロのイーゼンハイムにあった聖アントニウス会修道院付属の施療院の礼拝堂にあった。修道会の守護聖人聖アントニウスの木像を安置する彩色木彫祭壇で、扉の表裏に絵が描かれ、扉を閉じたときに見える第1面の中央パネルは、凄惨な描写で知られるキリスト磔刑像である。第2面は「キリスト降誕」を中心に、第3面は聖アントニウスの誘惑などを描く。十字架上のキリストの肉体は理想化されず、やせ衰え、首はうなだれ、指先は苦痛にひきつっている。施療院は、麦角中毒である「聖アントニウスの火」の患者の救済を主な務めとしており、患者が自らの苦痛をキリストの苦痛と重ねて救いを得られるよう、こうした磔刑像が描かれたと言われる。
1522年頃、大司教の命でハレへ赴いて美術建築顧問となったが、わずか2年後の1524年に解職された。ドイツ農民戦争のさなか、ルター派に身を投じたためだと言われ、以後は二度と筆を執らなかったという。その後はフランクフルトで製図工や薬の販売人などをして暮らし、1527年に再びハレへ戻り、翌1528年8月31日にハレでペストのため没した。50歳代の半ばだった。彼の事績は本名とともに長く忘れられ、再評価が始まったのは19世紀末頃からだった。
同じ年に亡くなった人物
- ジャンフランチェスコ・ペンニ (1528年没)
- ウルス・グラフ (1528年没)
- バルタザール・フープマイヤー (1528年没)
- パルマ・イル・ヴェッキオ (1528年没)
- ペドロ・ナバーラ (1528年没)
同じ地域に関係する人物
- ルートヴィヒ2世 (テューリンゲン方伯) (1172年没)
- クルト・シュプレンゲル (1833年没)
- ルドルフ・シュタムラー (1938年没)
- フリードリヒ・アウグスト・フォン・アンハルト=デッサウ (1864年没)
- Gisela Agnes of Anhalt-Kothen (1751年没)