HISTORICAL PERSON · 1979年没

アゴスティニョ・ネト

アンゴラの詩人・政治家で、同国の初代大統領。リスボンで医学を学び、帰国後は独立運動に加わって逮捕され、カーボベルデへ追放された。

生涯
1979年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
アンゴラ共和国(イコロ=ベンゴ)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

アントニオ・アゴスティニョ・ネトは、1922年9月17日にアンゴラのカテテで生まれ、1979年9月10日にソビエト連邦のモスクワで没した医師・詩人であり、アンゴラの民族主義者・政治家である。独立後の初代大統領を務めた。

父はメソジスト派の宣教所の伝道師で、のちに牧師や教師となった人物、母は地域の小学校の教師であった。父は彼を教育制度の最初の段階に乗せることができ、そのおかげで彼はのちにポルトガルの大学に進んだ。ポルトガルの植民地支配下で、アンゴラの黒人のうち「文明化された」とされる者はわずか1パーセントほどであり、彼はその一人だったという。ルアンダの高校に通った後、アンゴラの伝統文化の復興運動の中で頭角を現した。卒業後はいったん保健部門の職員として働き、植民地の問題への視野を広げたとされる。

その後ポルトガルへ渡り、コインブラ大学の医学部に入った。帝国学生会館の支部の創設に加わり、雑誌を発行し、「アンゴラを発見しよう」という集団も作った。1948年にアメリカのメソジスト派から奨学金を得て、リスボン大学の医学部へ移った。同じ1948年に最初の詩が発表されている。1950年には、平和会議のための署名を集めていた際に秘密警察に逮捕され、3か月拘束された。釈放されると、アミルカル・カブラルらとアフリカ研究センターをひそかに設立した。1950年代にはさらに逮捕され、1955年には18か月の拘禁を言い渡されたが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールやサルトルら多くの知識人が釈放を求める請願に加わった。1958年にポルトガル人女性のマリア・エウジェニアと結婚し、同年に医学部を卒業して、1959年にアンゴラへ帰国した。

1960年6月8日、独立運動によって植民地当局に逮捕されると、両親や支持者は釈放を求めてカテテからベンゴまで行進したが、ポルトガル兵に30人が殺害され、200人が負傷した。ネトはカーボベルデに追放され、リスボンで拘留されたのち、国際的な圧力で自宅軟禁となり、そこから脱走してモロッコ、次いでザイールに亡命し、国外から反ポルトガル闘争を続けた。1962年にはワシントンでケネディに目的を訴えたが、アメリカは反共のアンゴラ国民解放戦線の支持をすでに決めており、これを拒否した。コンゴ動乱にゲバラ率いるキューバ軍が派遣された際にはゲバラと会談してキューバの支援を取り付け、カストロとはイデオロギーの視点を分かち合った。

アンゴラ解放人民運動を率いて独立戦争を指導し、ポルトガルの撤退後、他の勢力との権力闘争を勝ち抜いて、1975年11月11日の正式独立に伴い初代大統領に就任した。就任後はソ連など共産圏に接近し、内戦ではキューバから大規模な支援を受けた。アンゴラ解放人民運動と対立した勢力をアメリカと連携して支援していた中国とは対立し、中越戦争では中国を非難した。1979年9月にモスクワで死去し、ジョゼ・エドゥアルド・ドスサントスが後を継いだ。遺体はソ連側でミイラ化されたが、廟が完成しないまま、1992年12月にアンゴラ政府は埋葬を決定した。9月17日は、アンゴラで国民的英雄の日とされている。

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