伝記
津田幸男は、1917年8月15日に兵庫県神戸市で生まれた日本のサッカー選手で、のちに指導者にもなった。ポジションはゴールキーパーである。第一神戸中学校の時代に、二宮洋一や直木和らとともに、1933年の全国中等学校蹴球選手権大会、のちの全国高等学校サッカー選手権大会で優勝した。卒業後は二宮とともに慶應義塾大学に進み、体育会ソッカー部に入った。やがてレギュラーの座をつかみ、関東大学サッカーリーグ戦で1937年から1940年まで4連覇を達成した。全日本総合蹴球選手権大会、のちの天皇杯全日本サッカー選手権大会では、1937年に学生チームとして優勝し、現役選手とOBからなる混成チームの慶應BRBの一員としても、1936年、1939年、1940年の優勝に貢献した。1940年の大会は、戦争による中断の前の最後の天皇杯となった。
1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業して、三菱重工業に入社した。創設されて間もないサッカー部の主力選手として活躍し、のちには東日本重工業でもプレーしている。同チームには1942年から約8年間在籍したとされる。
日本代表としては、1938年4月7日のイズリントン・コリンシャンズ戦で代表デビューを飾ったとされ、のちに正ゴールキーパーに定着した。1939年9月3日には満州国代表を相手に無失点で試合を終えている。1939年の日満華交歓競技大会や1940年の東亜競技大会にも出場した。国際Aマッチとして公式に認められている最初の試合は、1940年6月16日のフィリピン戦で、日本が勝った。この試合は、1936年のベルリン五輪の後、戦争によって日本が国際舞台から遠ざかる前の、1940年代の唯一の公式戦であった。第二次世界大戦の影響で選手としての活動はいったん中断されたが、戦後の1951年に日本が国際舞台への復帰を認められると代表に復帰し、同年3月のアジア競技大会で正ゴールキーパーを務めた。日本はこの大会で銅メダルを得ている。国際Aマッチの出場は通算4試合である。
戦後は、1951年に慶應義塾大学のチームに戻り、1951年と1952年の天皇杯優勝にも貢献した。3シーズンを過ごして競技から退いた。代表での最後の試合は、1953年6月14日の西ドイツのクラブ、キッカーズ・オッフェンバッハとの非公式戦で、9失点を喫した。晩年は慶應義塾大学体育会ソッカー部OB会の会長を務めた。1979年4月17日、パーキンソン病により61歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
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