伝記
アラム・イリイチ・ハチャトゥリアンは、1903年6月6日(旧暦5月24日)にティフリス(現在のジョージアのトビリシ)でアルメニア人の一家に生まれ、1978年5月1日に没したソビエト連邦の作曲家・指揮者である。ソビエトを代表する作曲家の一人と見なされている。
父イェギアはナヒチェヴァン近郊の村の生まれで、13歳でティフリスに移り、25歳で製本屋の主人となった。母クマシュは近郊の別の村の出身で、二人は互いに知り合う前、クマシュが9歳、イェギアが19歳のころからの許嫁であった。4男1女の末っ子であり、ティフリスの商人向けの商業学校で初等教育を受け、医学か工学の道を思い描いていた。ティフリスはコーカサス最大の都市で、アルメニア人が多く暮らす文化の一大中心地であり、その多文化的な環境が彼に影響を与えたとされ、本人も1952年の論説『音楽における私の民謡要素の着想』で、この町の環境が自らの経歴に及ぼした影響を綴っている。
1921年、18歳でモスクワに赴き、モスクワ芸術座の舞台監督をしていた兄スレンのもとに身を寄せた。それまで音楽教育を受けていなかったが、グネーシン音楽大学に入学し、同時にモスクワ大学で生物学も学んだ。チェロを学び、1925年にミハイル・グネーシンが作曲のクラスを開くと、これに参加した。ヴァイオリンとピアノのための『舞踏組曲』など最初期の作品から、アルメニアの民謡をふんだんに取り入れている。1929年にモスクワ音楽院に入り、ニコライ・ミャスコフスキーに作曲を師事した。卒業制作の交響曲第1番はアルメニアの影響を受けた曲で、ショスタコーヴィチからも賞賛を受けた。1936年に初めての主要作品となるピアノ協奏曲を書き、これが成功して、国外にまで名を知られるようになった。つづいてヴァイオリン協奏曲(1940年)がスターリン賞の第2席を得て、チェロ協奏曲(1946年)が続く。
作曲家同盟では1937年にモスクワ支部の副委員長となり、1943年に共産党に入党した。1939年にはアルメニアに6か月滞在し、民謡や舞踏曲を収集してバレエ『幸福』を完成させる。1942年にはそれを仕立て直して、バレエ『ガイーヌ』を作り上げた。『ガイーヌ』はレニングラードが包囲されるなか、ペルミで初演されて大成功を収め、2度目のスターリン賞を第1席で受賞した。賞金は赤軍の戦車の建造に使うよう、国へ返還したという。「剣の舞」は最大の人気作品となり、世界中で演奏されている。1944年にはアルメニア・ソビエト社会主義共和国の国歌も書いた。
しかし1948年1月、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチらとともに「形式主義」と非難され、その音楽は「反人民」の烙印を押された。公式に当局の怒りを買ったのは、のちに交響曲第3番と改称される交響詩曲であった。ハチャトゥリアンは3月に謝罪したが、音楽のスタイルは変わらなかった。翌年には名誉が回復された。1950年からは母校で教え、指揮にも進み、自作を携えて欧州、南米、アメリカで演奏会を行った。バレエ『スパルタクス』(1954年)も書き、同年にソビエト連邦人民芸術家の称号を得て、1957年に作曲家同盟の長官となって、死去するまでその職にあった。
同じ年に亡くなった人物
- Arne Rustadstuen (1978年没)
- ハイリ・ズーター (1978年没)
- マックス・デキュジス (1978年没)
- ムーサー・アッ=サドル (1978年没)
- Hjalmar Mae (1978年没)
同じ地域に関係する人物
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- ニコライ・クズネツォフ (1956年没)
- コンスタンチン・シーモノフ (1979年没)
- イワン・ドミートリエフ (1837年没)
- グリゴーリ・チュフライ (2001年没)