伝記
フェルディナンド・マゼランは、大航海時代のスペインの航海者、探検家である。出身地はポルトガルで、ポルトガル語名はフェルナン・デ・マガリャンイスという。1519年に始まる航海でスペイン王の信任を得て5隻の艦隊を率い、セビリアを出発した。南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を発見して太平洋に達したが、1521年にフィリピンで戦死する。残された艦隊は部下のフアン・セバスティアン・エルカーノの指揮で1522年に史上初の世界周航を達成し、その艦隊は「マゼランの艦隊」として後世に名を残した。
1519年までの記録に確かなものは少ない。1480年ごろ、ポルトガル北部ミーニョ地方の下級貴族である父ルイ・マガリャンイスと母アルダ・デ・メスキータの間に生まれたとされる。1492年に王妃レオノール・デ・ヴィゼウの小姓としてポルトガル宮廷に入り、そこでコロンブスの新世界発見やバスコ・ダ・ガマのインド航路発見を知って、航海への関心を深めたと言われる。1505年、インド洋の覇権を握るためのフランシスコ・デ・アルメイダの20隻の艦隊に、25歳のマゼランは希望して加わった。これが初航海であった。最初の地位は代理士官で、下級貴族出身のため船室は一般船員と同じ待遇だった。同じ艦隊には弟ディエゴと従兄弟のフランシスコ・セラーンもいた。東アフリカのポルトガル拠点の構築に2年3か月ほど働き、その働きを指揮官の一人ペレイラに認められて副舵手に抜擢された。1509年2月にはディウ沖でポルトガル艦隊19隻とイスラム船200隻の海戦があり、ポルトガルが勝利してインド洋の覇権を確立したが、この戦いでマゼランは5か月コチンの病院に入院するほどの重傷を負った。
1509年9月、回復したマゼランはペレイラ率いるマラッカ遠征に加わった。この最初の遠征はマラッカ王の策略によって大敗したが、マゼランは水際で戦い、危うい状況にあった従兄弟セラーンをボートで救う活躍をした。その功績によって船長の位を授かっている。下級貴族の出身で見習い士官から船長にまで上ったことは、彼の能力が相当に高かったことを想像させる。1511年4月にポルトガルは再びマラッカに大艦隊を送って制圧し、マゼランは功績で大型のカラベラ船1隻と個人的な奴隷を与えられた。セラーンは香料諸島への遠征に参加してテルナテ王の軍事顧問のような役割を果たし、その手紙で香料諸島の事情を知ったことが、のちにマゼランがスペイン王のもとで西回りの香料諸島渡航ルートの開拓を志願する動機の一つとなった。マゼランは、約8年にわたる東洋艦隊での勤務のあと、1513年1月に帰国した。
帰国後の1513年8月にはモロッコのアザムール攻略に参加して最前線で戦い、戦傷で右足が不自由になった。のちに鹵獲品管理の将校となったが、横流しで私腹を肥やしたという疑いをかけられ、無断で帰国してポルトガル王マヌエルに無実を訴え、香料諸島への派遣を直訴した。王はこれを無視し、モロッコへ戻るよう命じた。後年の研究者は、この告発はおそらく冤罪であろうと推測している。1515年に北アフリカから戻ってマヌエルに謁見し、その後ポルトガル宮廷を去った。通説では、月俸のわずかな増額と東洋へ派遣される船の指揮を求めて、いずれも拒絶されたためとされる。
同じ年に亡くなった人物
- Juan Lopez de Padilla (1521年)
- フアン・ポンセ・デ・レオン (1521年没)
- ジャン・ブルディション (1521年)
- ゼバスティアン・ブラント (1521年没)
- ヨハン2世 (クレーフェ=マルク公) (1521年没)
同じ地域に関係する人物
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