伝記
ラモン・マグサイサイは、1907年8月31日にアメリカ領フィリピンのイバで生まれた政治家で、第7代フィリピン共和国大統領である。タガログ、ビサヤ、スペイン、中国の血を引き、父エクセキエルは鍛冶屋、母ペルフェクタは中国系の混血の教師で看護師だった。小学校時代はカスティリェホスで過ごし、高校はサンバレス州のサン・ナルシソにあるサンバレス・アカデミーで学んだ。1927年にフィリピン大学へ入り機械工学を専攻したが、学費のため運転手として働き、のちにホセ・リサール・カレッジの商業学院に移って、1928年から1932年まで学び、商学の学位を得た。その後はバス会社で自動車整備士や工場の責任者として働いた。1933年6月16日にルス・バンソンと結婚し、三人の子をもうけている。
第二次世界大戦が始まると、陸軍の第31歩兵師団の自動車部隊に加わった。1942年にバターンが降伏すると丘陵地に逃れ、日本軍の逮捕を少なくとも4度かわしたという。そこで西ルソン・ゲリラ軍を組織し、同年4月5日に大尉に任官した。3年間、フランク・メリル大佐のゲリラ部隊のもとで活動し、補給将校から約1万人の部隊を率いる指揮官になった。1945年1月29日の米軍の上陸に先立って、サンバレスの沿岸から日本軍を一掃する働きをした。この功績で、サンバレス州の軍事総督に任命された。
1946年4月22日、元ゲリラの仲間に勧められて自由党から下院議員に当選し、1949年の「汚い選挙」でも再選された。下院国防委員長を務め、1948年にはロハス大統領の指名で、フィリピンの退役軍人に給付を与える法案の成立のため、ワシントンへ赴いた。1950年8月に共産主義系ゲリラと戦う計画をキリノ大統領に示し、ためらいの末に、9月に国防長官に任命された。フクバラハップ(フク団)に対する作戦を強化し、エドワード・ランズデール大佐の非正規の手法も取り入れた。兵士が山間部の村々に救援物資を配るなどしたため、それまで軍に無関心で不信を抱いていた農村の人々の見方が変わり、軍の評価は高まったとされる。1952年6月にはアメリカとメキシコを親善訪問している。
こうした一貫した反共姿勢が評価され、1953年の大統領選にナシオナリスタ党から出馬した。11月10日の投票で現職のキリノに大差をつけて勝ち、12月30日に大統領に就任した。20世紀生まれで初の、スペイン植民地時代以降に生まれた最初の大統領である。就任式に民族衣装のバロン・タガログで臨み、以後も公式の席で着用した。大統領府を「国民の家」と位置づけ、誰でも自由に入れるようにした。経済開発軍団を強化し、国家再定住復興局の設立に尽力して、約6万5千エーカーの土地を3千世帯の貧しい家族に与えた。1954年から1956年のGDP成長率は7.2%と高かった。1954年9月には東南アジア条約機構へフィリピンを加盟させた。清廉な姿勢が高い支持率を生み、1957年11月の再選が確実とみられていた。1957年3月17日、遊説先のセブからマニラへ戻る途中、大統領専用機がエンジンのトラブルで墜落し、49歳で亡くなった。葬儀には日本から特使として元首相の芦田均が出席した。後任にはカルロス・ガルシアが就いた。死後に創設されたマグサイサイ賞は、「アジアのノーベル賞」と呼ばれる。
同じ年に亡くなった人物
- ジョセフィン・ハル (1957年没)
- ルイジ・ガンナ (1957年没)
- マルティン・ヴァグナー (1957年没)
- カイ・ニールセン (1957年没)
- ピーター・フロイヘン (1957年没)
同じ地域に関係する人物
- フェルディナンド・マゼラン (1521年没)