HISTORICAL PERSON · 1519年没

マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)

ハプスブルク家のローマ王。1508年にローマで戴冠せず皇帝を名乗り、以後の慣例となった。自身と子・孫の結婚政策で成功しハプスブルク家隆盛の基礎を築き、「中世最後の騎士」とも呼ばれる。

生涯
1519年没
死亡地
オーストリア共和国(オーバーエスターライヒ州 / ヴェルス)
出生地
オーストリア共和国(ウィーナー・ノイシュタット)
出典
世界地図
オーストリア共和国(オーバーエスターライヒ州)

伝記

マクシミリアン1世は、ハプスブルク家出身のローマ王で、1508年からは神聖ローマ帝国史上初めて、ローマで戴冠式を挙げることなくローマ皇帝を名乗り、以後のローマ王もこれにならって皇帝を称した。1459年3月22日に生まれ、1519年1月12日に没した。武勇に秀で体躯にも恵まれ、芸術の保護者でもあったことから、「中世最後の騎士」とも謳われる。治世を通じて皇帝と帝国の権威は縮小したが、一諸侯としては自身と子や孫の結婚政策に成功し、ハプスブルク家隆盛の基礎を築いたため、マクシミリアン大帝とも称される。

父は皇帝フリードリヒ3世、母はポルトガル王ドゥアルテ1世の王女エレオノーレで、二人は1452年3月に教皇ニコラウス5世の手で結婚した。長男の夭折を経て、結婚7年後にようやく授かった皇子であり、父帝は占い師にその将来を占わせた。本人はのちに数々の打撃のたび、「暗い星座」のためだと述べたという。3歳の1462年8月には、野心家の叔父アルブレヒト6世の叛乱に際し、母とともにウィーンの王宮に幽閉された。言葉の発達が遅く5歳まで話せなかったが、母の期待を一身に受けて育った。その母は8歳のときに世を去った。明るく社交的な性格や芸術、学問への関心は、母の影響が大きいとされる。スコラ学の家庭教師には関心を示さず、乗馬をはじめあらゆる武芸に秀で、騎士道物語や年代記、紋章学に親しんだ。10代には眉目秀麗な若者となり、話術は人を惹きつけたという。

当時のブルゴーニュ公国は、毛織物と貿易で栄え、北方ルネサンス文化の中心でもあった。公シャルル突進公は、唯一の子女マリーの縁談を通じ、王または皇帝の位に近づこうとしてマクシミリアンに関心を示した。1473年9月、皇帝親子とシャルルはトリーアで会談し、14歳のマクシミリアンはシャルルに大いに気に入られたが、諸侯らの反発をおそれた皇帝は密かに会談の場を逃げ出した。のち、1476年4月にシャルルが婚約のみを再び申し込み、縁談は難なくまとまった。この際にダイヤモンドの指輪が贈り合われたやり取りを、婚約指輪の起源とする説もある。

1477年1月、シャルルがナンシーの戦いで戦死すると、公国は大混乱に陥った。孤立したマリーは3月にマクシミリアンへ救いを求める手紙を出す。マクシミリアンは5月にウィーンを発ち、8月18日深夜にヘントに着いてマリーと対面し、翌19日早朝に聖バーフ大聖堂で挙式した。二人は言葉が通じなかったが、互いに愛し合ったという。マクシミリアンはフランス王ルイ11世に毅然と臨み、9月に休戦の申し出を引き出した。ラテン語で意思を通わせた妻からフランス語を、宮廷の婦人からフラマン語を学んだ。1478年に長男フィリップ、1480年に長女マルグリットが生まれたが、1482年3月、妻は落馬事故のため25歳で世を去った。1479年8月には、歩兵の密集方陣でフランス騎士団を破ってフランドルを確保し、南ドイツからも傭兵を募って、ランツクネヒトの始まりといわれる部隊を訓練した。ただし、この戦いはハプスブルク家とフランス王家の確執の始まりでもあった。妻の死後は摂政となったが、ルイ11世の煽動で各地に反乱が起こり、1482年12月のアラスの和約で、2歳の娘マルグリットをフランス王太子シャルルと婚約させ、フランシュ=コンテなどを婚資として割譲するよう迫られた。それでも彼は帰郷せず、1483年から反撃を始めて、1485年にはブルッヘとヘントが開城し、フランス軍や叛徒を追放した。

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