伝記
ロベルト・ロッセリーニは、1906年5月8日にローマで生まれ、1977年6月4日に没したイタリアの映画監督である。ネオレアリズモ運動の先駆的な人物の一人であり、イングリッド・バーグマンを主演に据えた作品でも知られる。フランスのヌーヴェル・ヴァーグ運動に多大な影響を与えたとされる。
父は大手建設業者のアンジェロ・ジュゼッペ・ロッセリーニ、母はヴェネツィア出身のエレットラ・ベランで、ロベルトは長男であった。父は音楽愛好家でテノール歌手として舞台に立ったこともあり、事業を引き継いでローマ有数の建設業者となった。手がけた仕事には、映画館チーネマ・バルベリーニの建設などがある。ロベルトは上流家庭で何不自由なく育ち、フランス人の養育係からフランス語を習得した。家には作曲家のマスカーニら芸術家が出入りしていた。
少年時代は空想好きで、父が子供たちに映画館への出入りを許したため、サイレント時代の連続活劇や大作史劇に夢中になった。いちばん熱中したのは機械いじりで、邸の一室を実験室にしたほか、速度に魅せられ、当時は年齢制限がなかったため9歳で車を運転していた。第一次世界大戦中にスペイン風邪にかかり、もともと病弱で肋膜炎も患っていたことから、兵役を免除された。1932年に父が没し、世界恐慌の打撃で家計は悪化して地所を売ったが、本人は変わらない生活を送った。1936年に宝石商の娘マルチェッラと結婚し、二人の男子を授かった。結婚前の恋人だった女優アッシャ・ノリスを通じて映画に興味を抱き、スタジオに通い詰めた。
脚本家としての仕事を始めたが、初めは脚本に名前が載らず、名が載るのは1938年の『空征かば』からである。1936年にはアマチュアの短編映画を自主製作し、1939年にも短編を3本発表した。1941年、海軍の映画センターから病院船のドキュメンタリーを委託され、長編第1作『白い船』を製作した。同作はヴェネツィア国際映画祭に出品され、ファシスト党杯を受賞した。1942年の第2作『ギリシャからの帰還』は、ミケランジェロ・アントニオーニらが脚本に参加した。1943年の第3作『十字架の男』は、ロシア戦線で死んだ従軍司祭を描いている。
のちにネオレアリズモ映画の金字塔とされる『無防備都市』(1945年)も、初めはイタリアでは無視され、アメリカやフランスで熱狂的に迎えられてから評価された。『無防備都市』と『戦火のかなた』はアメリカで大成功を収めたが、『ドイツ零年』は製作者サミュエル・ゴールドウィンに見せても、気まずい沈黙が残っただけだった。バーグマン初のロッセリーニ作品『ストロンボリ、神の土地』は、1950年2月5日に全米300館で公開されたが、興行的に失敗し、ハリウッドへの扉は閉ざされた。
イタリアの批評家は、ネオレアリズモの退化がすでに『ドイツ零年』に現れ、『ヨーロッパ一九五一年』と『イタリア旅行』で破局に達したとみなした。だがフランスではアンドレ・バザンやトリュフォーら、のちにヌーヴェル・ヴァーグの作家となる若い批評家たちが、これらの「呪われた映画」を断固支持し、ロッセリーニは「ヌーヴェル・ヴァーグの父」と呼ばれた。ゴダールは『イタリア旅行』から、一台の車と男女がいれば映画ができると学び、『勝手にしやがれ』を撮ったと証言している。トリュフォーも、『大人は判ってくれない』は『ドイツ零年』に負うところが大きいと明言した。のちにバーグマンと結婚し、双子の娘のうち一人がイザベラ・ロッセリーニである。
同じ年に亡くなった人物
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