伝記
プブリウス・コルネリウス・ドラベッラは、紀元前3世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人で、紀元前283年に執政官(コンスル)を務めた。没年は紀元前282年とされるが、確かではない。
パトリキ(貴族)であるコルネリウス氏族の出身で、父と祖父の個人名は分かっておらず、ほかのコルネリウス氏族の人物との関係も不明である。ドラベッラというコグノーメン(家族名)が確認できるのは彼が最初で、ラテン語で斧を意味する語に由来すると思われる。ドラベッラ家からは、彼を含めて共和政期に6人、帝政期に2人の執政官が出ている。
紀元前283年、同僚執政官グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス・マクシムスとともに執政官に就いた。年の初め、前年の執政官で軍の指揮を延長されていたルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテルが、エトルリアでガリア人のセノネス族に敗れた。その後始末として、補欠法務官に選ばれたマニウス・クリウス・デンタトゥスがガリア人と交渉を始め、ドラベッラはエトルリアで、敗北に続いて起きた反乱の鎮圧に当たった。ガリア人のもとへ送られたローマの使節が殺されたと知ると、彼はエトルリアでの作戦を打ち切り、セノネス族に向かって進軍した。会戦で彼らを破り、その領土に入って荒らしたという。この折にセナ・ガリカ植民市が建設されたとする見方もあるが、伝承ではそれより数年前の建設とされる。
ポリュビオスによれば、同じガリア系のボイイ族は同じ運命を恐れて反乱したエトルリア人と結び、連合軍でローマに向かった。ドラベッラは北から戻る途中でこれを迎え撃ち、ローマの北でウァディモ湖の戦いに勝って壊滅させた。凱旋式を挙行したと考えられるが、この時期の凱旋式の記録は欠落しているため、確かな記録はない。一方アッピアノスは、連合軍を破ったのは同僚のカルウィヌスで、ドラベッラはガリア人の領土を荒らしたとする。また、アッピアノスはドラベッラがメテッルス・デンテルを戦死させたブリトマリス率いるガリア軍にも勝ったとするが、これはおそらくウァディモ湖の戦いより前の出来事である。
最期については伝えが分かれる。アッピアノスによれば、紀元前282年にタレントゥム(ターラント)がルキウス・ウァレリウス・フラックス提督の率いるローマの小艦隊を攻撃した際、ドラベッラは死んだ。この事件は、ピュロス戦争のきっかけとされる。溺死したか、捕虜となって後に処刑されたと思われる。一方で、紀元前280年のヘラクレアの戦いの後、捕虜の身代金交渉のため、ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌスらとともにピュロスのもとへ送られた使節の一人だったとする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- プトレマイオス1世 (紀元前282年没)
- パレロンのデメトリオス (紀元前 282年)
同じ地域に関係する人物
- ステファヌス4世 (ローマ教皇) (817年没)
- ベルナルディーノ・ザッポーニ (2000年没)
- アントニオ・テンペスタ (1630年没)
- マリア・カニーリア (1979年没)
- セルジョ・バランチーノ (2018年没)