伝記
ウルリケ・マリー・マインホフは、1934年10月7日に西ドイツのオルデンブルクで生まれたジャーナリストであり、のちにドイツ赤軍の創設者、指導者の一人となった。父母はともに美術史研究家であった。父がイェーナ市の図書館に勤めることになり、家族は姉とともに同市へ移ったが、1940年に父が病死したため、母は生計のために下宿人を置いた。この下宿人が、社会主義者の女性大学教授であった。1945年にイェーナがソ連占領地域になったため、一家はオルデンブルクに戻った。1949年には教師として働いていた母も癌で亡くし、同居の女性が、マインホフと姉の後見人となった。
マールブルク大学、次いでミュンスター大学で学び、核兵器に反対する運動で学生闘士として注目された。1959年に当時禁止されていたドイツ共産党に加わり、のち左翼的な雑誌「コンクレート」の記者となった。ミュンスターでは社会主義ドイツ学生同盟にも加わっている。彼女の記事は評判になり、1962年から1964年には編集長を務めた。映画監督のミヒャエル・ハネケは、のちに彼女を、好感が持てて温かい心を持ち、政治に積極的で、ユーモアに富んだ人間だったと評している。1961年に同誌の発行人クラウス・レールと結婚し、翌1962年に女児の双子をもうけたが、のちに離婚して、夫が養育権を得た。1962年には良性の脳腫瘍の手術を受けたとされ、1976年の解剖では、腫瘍の残りと手術の瘢痕が脳の扁桃体を圧迫していたという。
1967年6月2日、イラン国王の訪問に抗議する西ベルリンのデモで学生ベンノ・オーネゾルクが警官に射殺されると、彼女は同誌でドイツの責任を追及した。1968年2月には国際ベトナム会議に参加している。ルディ・ドゥチュケの暗殺未遂事件や、右翼を扇動したメディア王アクセル・シュプリンガーについての記事を書いたころから、思想は過激化した。1970年にアンドレアス・バーダー、グドルン・エンスリンが率いる極左の地下組織に加わり、「バーダー・マインホフ・グルッペ」を編成した。同年6月からは日本の赤軍派に触発され、ドイツ語で赤軍を意味する名を名乗るようになった。バーダーの脱獄を助けたのち、ヨルダンのパレスチナ解放人民戦線のキャンプで訓練を受けながら、理論的、思想的な支柱として活動した。この組織は反帝国主義を掲げ、1970年から1972年にかけて数多くの銀行強盗や爆弾テロを引き起こした。1970年5月には、シンパに依頼して娘たちを元夫のもとから連れ去り、フランスを経てイタリアの共同体に預けたが、9月に二人はイタリアで国際刑事警察機構に保護された。
1972年に仲間とともに逮捕され、シュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所に収監された。1975年5月から、マインホフ、バーダー、エンスリン、ラスペの幹部4人の裁判が始まった。1974年11月に最初の活動であるバーダー脱獄の際の銃撃事件への関与で、懲役8年を言い渡されていた。1976年5月9日、獄中で死亡し、首吊りによる自殺と発表されたが、シンパの側は権力による処刑だと主張した。姉のヴィーンケは、死の数日前に、自殺と言われても殺されたのだと思ってほしいと妹から告げられたと述べている。5月16日に西ベルリンの聖三位一体教会に埋葬された際には、4000人以上のシンパが詰めかけた。保存されていた脳は、2002年に娘が返還を求め、遺体とともに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- フリッツ・ラスプ (1976年没)
- アルノルト・ゲーレン (1976年没)
- ジーナ・バッカウアー (1976年没)
- 毛沢東 (1976年没)
- ファン・ダリエンソ (1976年没)
同じ地域に関係する人物
- コンスタンティン・ヒールル (1955年没)
- フリードリヒ・フォン・バーデン=ドゥルラハ (1729年没)
- ヘルマン・アーベルト (1927年没)
- ヴィニフレート・ワーグナー (1980年没)
- ヴォルフガング・シュミーダー (1990年没)