伝記
ジャン・ギャバンは、1904年5月17日、パリ9区のロシュシュアール大通り23番地に生まれたフランスの映画俳優で歌手である。本名はジャン・アレクシ・モンコルジェといい、父は喫茶店主でオペレッタの役者、母はカフェ・コンセールの歌手だった。両親には7人の子があり、うち3人は幼くして亡くなった。ギャバンは末の息子で、最初の10年ほどはパリの喧噪を離れた小さな町メリエルで、年長の姉マドレーヌに育てられ、田舎に生涯の愛着を抱いた。1914年にはボクシングの試合で鼻を強打されて潰し、14歳のときに母を亡くした。学校の成績は芳しくなく、パリの名門校に籍を置きながら学業を投げ出して、事務所の使い走り、鋳造所の工員、倉庫係、新聞売りなどの職を転々とした。17歳のころには、部屋から眺める蒸気機関車の運転士に憧れたという。
1922年、父に押されて芸能の世界に入り、ジャン・ギャバンの芸名で、フォリー・ベルジェールの端役から始めた。1924年から1925年は海軍で兵役に就き、その間にガビー・バセと結婚している。1926年にはミュージック・ホールの歌手、オペレッタの歌手として舞台に立ち、2年にわたって国内を巡業した。1927年にブラジルへ渡ったが、契約も興行も報酬もなく、失敗に終わった。翌1928年の春、ムーラン・ルージュのオーディションでミスタンゲットに誘われ、彼女の一座に加わって、レビューでは相手役を務めた。こうして歌や演技の修練を積んだ。
1930年の『メフィスト』で映画に初出演したが、しばらくは振るわなかった。1935年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『地の果てを行く』が当たり、以後、デュヴィヴィエ作品の『ゴルゴダの丘』『我等の仲間』『望郷』に出た。『望郷』では実際にシャンソンを歌い、ミュージック・ホール時代をしのばせて、名声を不動のものとした。1937年にジャン・ルノワール監督の『大いなる幻影』に出演して以降は、同監督の『獣人』、マルセル・カルネ監督の『霧の波止場』でも演技を見せた。第二次世界大戦の激化にともなってアメリカへ移住し、『夜霧の港』などのアメリカ映画にも出演した。戦中は自由フランス軍に加わり、水兵として、のちには戦車の車長を務めた。
戦後、しばらくは不振が続いたが、1954年のジャック・ベッケル監督『現金に手を出すな』の主演でヴェネツィア国際映画祭の男優賞を受け、円熟期を迎えた。同じ年には『われら巴里ッ子』や『フレンチ・カンカン』にも出ている。1960年代以降は渋い老役を中心に脇役にまわり、『地下室のメロディー』『暗黒街のふたり』などの重厚な演技で知られる。シムノンのメグレ警視を当たり役としてシリーズも作られた。ギャング映画に数多く出て、晩年はマフィアの組長役などを好演した。三度結婚して三度離婚し、マレーネ・ディートリヒと浮名を流したことでも知られる。気さくな性格で、共演者からも愛された。1976年11月15日、パリ西部郊外ヌイイのアメリカン病院で心臓発作のため72歳で亡くなった。
没後は、ルイ・ド・フュネスの先導で、フランス映画の若い男優に贈られるジャン・ギャバン賞が設けられ、1981年から2008年まで運営された。1992年には、幼少期を過ごしたメリエルにジャン・ギャバン博物館が開かれた。日本では、高倉健が食事の芝居をギャバンに学んだと語り、淀川長治もその食べ方の巧さを評した。
同じ年に亡くなった人物
- フィル・オクス (1976年没)
- フレディ・キング (1976年没)
- アンネリーゼ・ミシェル (1976年没)
- Taos Amrouche (1976年没)
- 南日 (1976年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス (1669年没)
- ウジェーヌ・グラッセ (1917年没)
- エティエンヌ・ピヴェール・ド・セナンクール (1846年没)
- レオ・マレ (1996年没)
- ベルナール・ブリエ (1989年没)