HISTORICAL PERSON · 1669年没

ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス

イングランド王チャールズ1世の王妃。カトリック信者で不人気だったため戴冠式は行われず、内戦中の1644年にフランスへ亡命した。

生涯
1669年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / コロンブ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスは、イングランド国王チャールズ1世の王妃である。フランス語名はアンリエット・マリー・ド・フランスという。1609年11月25日(26日とする説もある)にパリのルーヴル宮殿で、フランス国王アンリ4世と2番目の王妃マリー・ド・メディシスの第6子として生まれた。当時のイングランドではユリウス暦も使われていたため、11月16日とする記録もある。生後1年にも満たない1610年5月に父が暗殺され、数年後には母も兄ルイ13世との関係が悪化して王宮から追われた。

1619年に姉クリスティーヌがサヴォイア公に嫁ぐと、最年長の未婚の王女として「マダム・ロワイヤル」の称号で扱われるようになった。乗馬、舞踏、歌唱などの手ほどきを受け、宮廷の寸劇にも加わった。学問の才は定かでないが、カルメル会の強い影響のもとでカトリックの信仰を育んだ。1622年ごろには200人ほどの従者とパリで暮らし、縁談も本格化していった。

チャールズとは、まだ王太子だった彼がスペイン王女との縁談をまとめるためマドリードへ向かう途中の1623年にパリで出会った。スペインとの縁談は、王女の兄フェリペ4世がチャールズのカトリックへの改宗などを条件にしたため破談になり、フランス王家に新たな花嫁が求められた。1625年5月11日に代理結婚式を挙げ、同年6月13日にケント州カンタベリーで正式に結婚した。15歳であったが、当時の王女の結婚年齢としては異例ではなかった。多額の持参金や美術品、衣装とともに、フランスで選ばれた修道女や侍女も随行した。

英語を話した経験がなく、20年以上たった1640年代後半にも読み書きや会話に不自由したと伝わる。熱心なカトリック信者でもあったため、イングランド社会からは異端視された。国教会での戴冠を拒み、戴冠式は一度も行われず、夫の戴冠を目立たない場所から見ることを許されただけだった。この件でロンドン市民の心証は大きく悪化した。結婚当初の夫婦仲は良好でなく、夫は王妃の側近たちのせいだと不満を漏らし、1626年にはフランスから来た随行員の追放を求め、武装した衛兵まで使って王宮から排除した。しかし後には、極めて親密な夫婦になった。

夫からは単に「マリア」と呼ばれ、民衆は「メアリ王妃」と呼んだが、これにはカトリックだった祖母のスコットランド女王メアリを当てこする意味もあった。1626年にタイバーン刑場で処刑されたカトリック信者のために祈ったことも、激しい論争を呼んだ。浪費も著しく、支払いに数年かかる負債を抱え、1627年には秘密裏に借金をした。ヘンリー・ジャーミンが寵臣となり、小人のジェフリー・ハドソンらを宮廷に雇い、サマセット・ハウスなどの邸宅を与えられたほか、珍しい犬や猿、鳥も買い入れた。

清教徒革命でイングランドが不穏になると、その対応に追われた。第一次イングランド内戦が最高潮の1644年、末娘ヘンリエッタ・アンを産んだ直後に、故国フランスへの亡命を余儀なくされた。1649年に夫が処刑されると経済的に苦しんだが、パリで亡命生活を送った。1660年の王政復古で長男がチャールズ2世として即位すると帰国したものの、1665年に再びパリへ戻り、1669年9月10日にコロンブで亡くなった。亡骸はサン=ドニ大聖堂に葬られた。息子にチャールズ2世とジェームズ2世、孫にメアリー2世、ウィリアム3世、アンがいる。北米のメリーランドは、チャールズ2世が彼女にちなんで名付けた地名である。

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