HISTORICAL PERSON · 紀元前760年代没

オソルコン3世

第23王朝のファラオ。ライバルに敗れ一時砂漠に逃れたが勢力を盛り返し支配権を奪還。息子との共同統治はエジプト史上最後の例となった。

生涯
紀元前760年代没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

オソルコン3世は、古代エジプト第23王朝の第3代または4代目のファラオである。在位は紀元前798年から紀元前769年ごろとも、紀元前791年から紀元前769年ごろともされる。即位名はヘジュケペルラー・セテプエンアメンという。シェションク王家の本流であるタニスの第22王朝から分かれ、テーベで新たな王朝を興したタケロト2世の息子で、母は王妃カロママとされる。

王子のころ、父の治世11年から25年目にかけて、アメン神に仕える大司祭の地位にあった。のちシェションク3世の治世22年目から39年目にかけても同じ司祭職を務めた。この経歴は、王自身が中部エジプトのアコリスに残した石碑から明らかになった。一説では、オソルコン王子とシェションク3世は兄弟で、父の没後に弟の王子がクーデターで兄から後継者の座を奪ったとされる。しかしこの解釈では、反乱分子の兄を助命し、一度は政治の表舞台から退けたのちに司祭職へ復帰させたシェションク3世の行動が不自然になる。またシェションク3世は約40年も王位にあり、その後に約28年間在位したオソルコン3世は、少なく見積もっても100歳以上生きた計算になる。そのため近年は、シェションク3世がタケロト2世の兄弟か同年代の親族で、同じころエジプト国内を南北に二分していたとする説が支持を集めている。

当時の情勢は複雑だった。タケロト2世の治世15年目ごろ、王家の傍流に当たるペディバステト1世がファラオを称し、エジプトに3人のファラオが並び立った。上エジプトは二人の王それぞれを支持する派閥に分かれ、テーベの支配権をめぐって争った。この争いのなかで、父子に対するテーベの反乱が起こったとされる。約10年後にタケロト2世が崩御すると、ペディバステトの勢力が優勢となり、オソルコン3世は司祭の地位を追われた。彼は西方の砂漠に逃れて抵抗を続けたとされる。この間、オソルコンは追放と復帰を繰り返したとされ、テーベを追われては艦隊を率いて奪い返すこともあった。アメン大司祭の座をめぐっては、ペディバステト側が立てたホルセイセと入れ替わる形になった。一時はシェションク3世と結んで大司祭に復帰したが、その宗主権はあくまで名目上のものにすぎなかったとされる。ペディバステトが勢力を伸ばすと、再びテーベを追われることもあった。

さらに約10年後、ペディバステト1世が没すると、オソルコン3世は勢いを盛り返した。ペディバステトの後継者シェションク6世を倒し、テーベの支配権を奪い返して王位に就いた。即位後は中部エジプトのヘラクレオポリスまでを勢力下に置き、息子のタケロト3世を長官に任命した。タケロト3世は、オソルコン3世の晩年の5年間に共同統治者となった。これはエジプト史上で行われた最後の共同統治で、第23王朝の後継者たちを含む以降の王朝の王は、いずれも単独で統治した。

家族については、王妃テンツァイとの間に後継者のタケロト3世がもうけられ、王妃カロアジェトとの間にはアメンの神妃と、二人目の後継者ルドアモンが生まれた。ほかにも子が知られ、イルティバステトは兄弟のタケロトと結婚し、ジェドプタハイウエフアンクは外国人の長官としてエレファンティネでクシュ王国との関係を扱ったと考えられている。治世には、ナイル川の異常な増水が起こり、アメン神殿を含むテーベの一部が水に浸かったことも伝えられる。

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