伝記
ブルッティア・クリスピナは、ローマ皇帝コンモドゥスの皇妃である。164年に生まれ、191年に没したとされる。ただし、187年まで生きたとする説もある。
執政官を2度務めた有力貴族ガイウス・ブルッティウス・プラエセンスの娘として生まれ、母はウァレリアといった。祖父も同名の元老院議員で執政官を務め、祖母ラベリア・ホスティリア・クリスピナは、やはり執政官を2度務めたマニウス・ラベリウス・マクシムスの娘で、裕福な家の相続人であった。兄のルキウス・ブルッティウス・クィントゥス・クリスピヌスも、のちに執政官となった。一族は南イタリアのルカニア地方のウォルケイを故郷とし、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスといった皇帝たちと深い結びつきがあった。
178年の夏、クリスピナは16歳の皇太子コンモドゥスと結婚した。当時の上流階級の常として政略結婚であり、父と、コンモドゥスの父である皇帝マルクス・アウレリウスが取り決めたものだった。挙式は慎ましく行われたが、貨幣に記念として刻まれ、民衆には施しも配られた。ソフィストのユリウス・ポルクスが祝婚歌を作った。クリスピナは多くの所領を持参金として持ち込み、それが皇室の所領に加わって、コンモドゥスはルカニアの大部分を支配することになったという。結婚と同時にアウグスタの称号を受けた。コンモドゥスは美しさを鼻にかける傲慢なクリスピナを嫌っていたともいわれるが、別の記述では、優美で感じやすい心の持ち主とされる。
マルクス・アウレリウスの治世の最後の2年間と、コンモドゥスの治世の初めには、クリスピナの肖像が各地に広く掲げられた。しかし、夫に対して政治的な影響力はほとんどなかったようである。コンモドゥスの姉で元皇后のルキッラは、クリスピナの地位と権勢をねたんでいたと伝えられる。182年にクリスピナが身ごもっていた可能性があり、それがルキッラによる陰謀の動機になったとする説がある。この説は、出産を願う女神や出産にかかわる意匠が刻まれたクリスピナの貨幣を主な根拠としている。この結婚から子の存在は知られていないが、当時は新生児の死亡が多く、古代の記述では子の死に触れないのが普通だったともいう。いずれにせよ結婚は世継ぎを生まず、後継者をめぐる危機を招いた。コンモドゥスと最初の執政官職を共にしたルキウス・アンティスティウス・ブッルスと、皇族と縁続きだったらしいガイウス・アッリウス・アントニヌスが、帝位を狙った疑いで処刑されたと伝えられる。
のちクリスピナは、姦通の罪を着せられてカプリ島に流された。流刑は、ルキッラの暗殺未遂後に人間不信となったコンモドゥスが、反乱の疑いありとして182年に命じたとする説明がある。一方、結婚から10年後の188年に姦通を理由に流されたとする説明もあり、そこで処刑されたともいう。流刑の原因をルキッラの陰謀と結びつけるのは、古代の記述の読み違いによる誤りだとされ、クリスピナの名は191年ごろまで碑文に現れる。失脚は、権臣クレアンデルの没落や、世継ぎが生まれなかったことの結果だった可能性が指摘されている。クリスピナの流刑後、コンモドゥスは再婚せず、マルキアという女性を愛人とした。この女性は、のちにコンモドゥスの暗殺に加わったといわれる。コンモドゥスの跡を継いだのは、ペルティナクスであった。
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