HISTORICAL PERSON · 1975年没

ファイサル (サウジアラビア王)

第3代サウジアラビア国王。父王の下で軍を指揮してヒジャーズ王国侵攻で勝利し、外務大臣などを経て1964年に即位、1975年まで在位した。

生涯
1975年没
死亡地
サウジアラビア王国(リヤード州 / リヤド)
出生地
サウジアラビア王国(リヤド)
出典
世界地図
サウジアラビア王国(リヤード州)

伝記

ファイサル・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウードは、1906年4月14日にリヤドで生まれた第3代サウジアラビア国王である。初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの3番目の息子で、母はムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブの子孫の家の出であった。母は1912年に亡くなり、幼い彼は母方の祖父に育てられて、クルアーンとイスラームの教えを学んだという。1919年、英国政府に招かれた父の代わりに14歳でロンドンを訪れ、約5か月滞在してサウジ王家の者として初めて英国を公式に訪れた。同じころフランスも訪れている。

成人後は父王の下で多くの任務を負い、1922年には約6千人の戦士とともにハイルやアシールへ送られて両地方を掌握した。1925年にはヒジャーズ王国への侵攻で決定的な勝利を収め、翌1926年にヒジャーズの知事となった。サウジアラビア王国の成立後は外務大臣を務め、この職は国王になってからも保ったとされる。パレスチナを国連が分割した後には、父王にアメリカとの国交断絶を呼びかけたが、退けられた。

1953年に兄のサウードが即位すると皇太子となった。サウードの浪費的な支出と外交の拙さに危機感を抱いた王族や宗教指導者の圧力で、ファイサルは首相に任じられ、歳出の大幅な削減に取り組んで倹約家との評判を得た。しかしサウードとの権力争いが続き、1960年12月18日にいったん首相を辞任し、1962年に王族内の支持を集めて再び首相の座に就いた。この時期の1962年11月26日には10か条の布告を発表し、クルアーンとスンナを法と行政の基盤とすること、地方行政制度の確立、奴隷制度の廃止と奴隷の解放などを掲げた。この理念は後の基本統治法に受け継がれたとされる。女子教育の導入やテレビ局の設立も進め、宗教界の反発には、女子の教育課程を宗教指導者が監督することや、宗教番組を多く放送することで応じた。1964年3月4日に摂政となり、同年11月2日に即位した。

即位後も近代化を進め、女学校の設立や1965年のテレビ放送開始を実現したが、多くの国民の反対にあった。1966年にテレビ局を襲撃した甥のハーリド王子を、ファイサルは射殺せよと命じた。1967年には弟のファハドを初代の第二副首相に任命している。1969年にはイスラム諸国会議機構を結成し、事実上のイスラム世界の盟主となった。1973年の第四次中東戦争では、アラブ石油輸出国機構や石油輸出国機構を主導して価格を4倍にし、世界市場へのサウジアラビア産石油の供給を絞ったため、世界的な石油危機が起きた。同年12月には、中東特使として訪れた三木武夫と会談し、日本を友好国扱いとして対日石油供給制限を解除した。1974年にはニクソン大統領やキッシンジャー国務長官と会談し、ドル建ての原油供給と引き換えにアメリカが安全保障を提供する協定を結んだとされる。同年、タイム誌のマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。

1975年3月25日、クウェート代表団の待つ場で、甥のファイサル・ビン・ムサーイド王子にピストルで顔面を3回撃たれて亡くなった。王子は精神疾患と公式に発表されたが、のちに大逆罪で有罪となり、同年6月18日にリヤドで斬首刑に処された。1965年に保安部隊との衝突で死んだ兄ハーリド王子の敵討ちを望んでいたと推測されたが、調査では単独行動と断定された。王位は弟のハーリドが継いだ。パキスタンでは、イスラマバードのモスクがファイサルにちなんでファイサル・モスクと名づけられ、ライアルプールは1979年にファイサラーバードと改名された。

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