伝記
エイモン・デ・ヴァレラは、1882年10月14日にニューヨークの病院で生まれ、1975年8月29日に没したアイルランドの政治家である。20世紀初頭の独立運動を指導し、のちに初代ティーショク(首相)、第3代大統領を務めた。教育者・数学者でもあり、1922年から死去までアイルランド国立大学の総長の職にあった。功績への評価は賛否が分かれるが、20世紀のアイルランドを語るうえで欠かせない人物とされる。
本人は、アイルランド人の母ケイト・コールとキューバ系の父が1881年にニューヨークで結婚したと語っていた。しかし、伝記作家のティム・パット・クーガンらが調べても二人の結婚記録は見つからず、私生児であったというのが定説になっている。19世紀末には、私生児であることはカトリック教会の聖職者への道が閉ざされることを意味した。デ・ヴァレラは生涯深いカトリック信仰を持ち、遺体を修道院に埋葬してほしいと頼むほどで、何度か本気で修道者になることを考えた。司祭だった異父弟の生き方にも影響を受けたが、相談を受けた司祭たちは修道生活を勧めず、その道には入らなかった。出生の秘密との関連は不詳とクーガンも述べている。
2歳でアイルランドに渡り、母の再婚を機にリムリック県の母方の親戚に預けられた。16歳でダブリンのブラックロック・カレッジの奨学生に選ばれ、さらに奨学金を得て学び、1903年にはロックウェル・カレッジの数学教授に任命された。1904年にアイルランド王立大学を卒業し、ダブリンで教壇に立った。1908年にゲール語連盟に入り、4歳年上の教師シネイド・フラナガンと出会って、1910年に結婚した。本格的に政治活動へ入るのは、1913年11月に義勇軍に加わってからである。急速に階級を上げ、第3大隊長とダブリン師団の副団長を兼ね、アイルランド共和同盟にも加わった。
1916年4月24日のイースター蜂起では、ダブリンのボーランド・ミルズを占拠した。計画のずさんさから蜂起は鎮圧され、指導者ピアースの降伏命令が出る。捕らえられて死刑を宣告されたが、終身刑に減刑された。理由はアメリカ国籍を持っていたためと説明されることが多いが、他の指導者と別の刑務所に入れられていたことも挙げられ、資料はアメリカ市民権の有無そのものにも疑問を残している。1917年に特赦で釈放され、1918年の選挙で東クレアから庶民院議員に選ばれ、シン・フェイン党の代表にも選ばれた。同党は同年の総選挙で圧勝し、1919年1月にドイル・エアランを結成した。デ・ヴァレラはその議長に選出され、同年6月から1920年12月までアメリカに滞在して、融資と在米アイルランド系市民の援助は得たが、政府の承認は得られなかった。
独立戦争の最中、IRAにゲリラ戦術をやめるよう求めて批判され、あわてて支持を再表明する一幕もあった。1921年8月には自らの職を共和国大統領へ昇格させ、国王が出ない以上、自分も和平交渉に出る必要はないと表明した。1921年12月6日、コリンズとグリフィスらが交渉にあたって英愛条約が結ばれ、北部6県を除くアイルランド自由国が成立した。デ・ヴァレラは、全権委員会が自分の最終承認を得ずに調印したことに不満だったとされる。
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