伝記
イヴァン3世は、1462年から1505年までモスクワ大公として在位した君主である。「大帝」の異称で知られ、ルーシ北東部を「タタールのくびき」から解放し、モスクワ大公国の支配領域を東西に大きく広げて、即位時の4倍とし、強力な統一国家を築いた名君と評価される。1440年1月22日に生まれ、父は先代のヴァシーリー2世、母はボロフスクの公女マリヤ・ヤロスラヴナである。
即位直後から、侵略、婚姻、相続などさまざまな手段で近隣の併合を進めた。1463年にヤロスラヴリの諸公に、1474年にはロストフの諸公に統治権を譲渡させ、1465年には妹アンナをリャザン大公に嫁がせてリャザン公国を保護国とした。トヴェリ公国では、最初の妻マリヤの兄ミハイル3世がポーランド王でリトアニア大公のカジミェシュ4世と結んで敵対しようとしたため、1485年にトヴェリを奪った。別々の法体系を持つ諸地域を取り込んだイヴァンは、1497年に全域に適用される法典を施行して対処し、中央集権体制への先鞭をつけた。分領制の伝統は続いていたが、二人の弟が子なくして死ぬと慣例を破って所領を回収し、これに反対したウグリチ公アンドレイを捕えて獄死させた。最大の併合政策は、ノヴゴロド共和国に対するものだった。1471年に親リトアニア政権を遠征で倒して厳しい条約を結び、外交文書の呼称をめぐる一件を無礼と咎めて包囲し、1477年には直接統治への移行を強要した。これによって貴族共和政国家ノヴゴロドは終わり、貴族たちは1500年ごろまでに所領を奪われて他地域へ強制移住させられた。没収した領地は、大公に仕える士族に与える封地の源泉となり、大公権のさらなる強化につながった。
1467年に妻マリヤに先立たれた後、1472年に、最後のビザンツ皇帝の弟ソマス皇子の娘ゾイ(ロシア語名ソフィヤ)と再婚した。ソフィヤは洗練されたイタリアの文化をモスクワに持ちこんだとされ、イヴァンはルネサンス建築に関心を示して、イタリア人の建築家を呼び寄せてクレムリンの宮殿や教会を建設・改築させた。アリストティル・フィオラヴァンティがウスペンスキー大聖堂を1479年に完成させ、堅牢な城砦だったクレムリンは壮麗な宮殿へと変貌した。
タタールとの関係では、1480年10月、大オルダの君主アフマド・ハンが貢納と臣従の再確認を求めてモスクワへ大規模な遠征を開始した。イヴァンはウグラ川に大軍を集めて渡河を阻止し、アフマド・ハンは数週間後に退却した。このウグラ河畔の対峙は、ロシアが「タタールのくびき」から最終的に解放されたことを象徴する出来事とされる。西ではリトアニアと争い、1494年の休戦条約でリトアニアは「全ルーシの君主」という称号を認め、1495年には娘エレナがリトアニア大公アレクサンデルと結婚し、1503年の休戦ではリトアニア支配下にあった広い地域を自領に組み入れた。
晩年は後継者問題に悩んだ。1490年に同名の長男が没すると、孫ドミトリーと、ソフィヤとの子ヴァシーリーのどちらを世継ぎにするかで対立が起きた。1498年にドミトリーが共同統治者とされたが、1500年にヴァシーリーが改めて共同統治者に指名され、1502年にはドミトリーと母エレナが逮捕された。イヴァン3世は1505年10月に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- エルコレ1世・デステ (1505年没)
- エリーザベト・フォン・ハプスブルク (1505年没)
- ジャン・エイ (1505年(推定))
- 弘治帝 (1505年没)
- Ayse Gulbahar Hatun (1505年没)
同じ地域に関係する人物
- Aleksandr Kurosh (1971年没)
- Mark Dvoretsky (2016年没)
- マカリイ1世 (モスクワ府主教) (1882年没)
- グレブ・パンフィーロフ (2023年没)
- ジョン・リード (1920年没)