伝記
リュドミラ・ミハイロヴナ・パヴリチェンコは1916年、当時ロシア帝国領だったウクライナのキエフ近郊、ビーラ・ツェールクヴァに生まれたソ連の軍人で、狙撃手である。14歳のときに一家でキエフ市内へ移ると、市のスポーツ少年団の射撃部に入り、才能の芽はすでにそのころから見えていたという。高校を出ると旋盤工としてキエフの兵器廠で働き始めたが、のちに大学進学を志して検定試験に合格し、キエフ大学の文学部史学科に進んだ。勉学のかたわら射撃にも打ち込み、男子部員を含めても成績は抜群だったとされる。
1941年、ドイツなどによるソ連領への侵攻が始まると、まだ大学に在籍していた24歳の彼女はキエフの赤軍事務所へ出向いて入隊を志願した。希望は狙撃手であり、比較的安全な看護婦の道もあったが、自らそれを断ったと後に語っている。身体検査と狙撃手の適性試験に通って第54狙撃連隊に二等兵として配属され、射撃教育でも優れた成績を収めて正式に狙撃手に選ばれた。望遠照準器を付けたモシン・ナガン狙撃銃を支給され、1941年8月にオデッサ市の防衛に就いた。初陣のベルアイユフカ近郊の防御戦では敵兵2名を射殺し、味方から一目置かれたという。撤退戦では、本隊の後退を援護するために最前線に残され、敵の前進を遅らせる任務を負った。偽装して待ち伏せ、指揮官・通信兵・狙撃手を優先して撃つ戦いのなか、枯草模様の偽装で潜み、敵をやり過ごしてから背後や側面の700〜800メートルの距離から撃つ戦術で戦果を重ねたとされる。
オデッサからは黒海艦隊の援護で脱出した。後退戦の開始から防御戦の終了まで約2か月半の確認戦果は、敵の狙撃手10名以上を含む187名に達し、短期間で上等兵から少尉まで昇進した。部隊はそのままクリミア半島のセヴァストポリへ送られ、1942年5月には中尉となっていて確認戦果は257名に増え、赤軍南部委員会から個人感状を贈られた。同年6月、セヴァストポリの要塞は1300門以上の大砲による徹底した砲撃を受け、彼女も迫撃砲弾の破片で負傷して北コーカサスの病院へ移され、クリミア戦線を離れた。セヴァストポリはその約1か月後に陥落した。約1か月の療養ののち前線に復帰したが、すでに国中に名を知られていた英雄を失うことを恐れた軍指導部は、彼女を新設の女子狙撃教育隊の教官に任じて前線から退かせた。最終的な確認戦果は敵兵309名で、そのうち36名は狙撃手とされる。
少佐に昇進したのち、宣伝活動の一環で同盟国アメリカへ派遣され、ソ連人として初めてホワイトハウスを訪れてルーズヴェルト大統領と会見した。エレノア夫人に招かれて各地を巡り、国際学生会議などで演説し、海兵隊の訓練基地では狙撃の講義も行った。立ち寄ったカナダでも銃を贈られ、これらはモスクワの中央軍事博物館に展示されている。1943年にソ連邦英雄の称号を受け、帰国後は再び教官として後進の指導にあたった。戦後は除隊してキエフ大学に復学し、卒業後は海軍司令部の戦史課で1953年まで研究助手として戦史の編纂に携わった。夫を戦争で亡くし、自身の戦争体験もあってアルコール依存に苦しんだとされ、1974年10月に58歳で病死し、モスクワのノヴォヂヴィシエ墓地に葬られた。自伝は『最強の女性狙撃手』として邦訳され、映画『ロシアン・スナイパー』の原案となった。
同じ年に亡くなった人物
- Ralph Bishop (1974年没)
- キャス・エリオット (1974年没)
- サティエンドラ・ボース (1974年没)
- Maturino Blanchet (1974年没)
- ヴァージニア・アプガー (1974年没)
同じ地域に関係する人物
- ヌィグメト・ヌルマコフ (1937年没)
- ミハイル・ミーリ (1970年没)
- ジガ・ヴェルトフ (1954年没)
- エフゲニー・ハルデイ (1997年没)
- アナトリー・ソロニーツィン (1982年没)