伝記
ジェームズ・チャドウィックは1891年、イングランドのチェシャーで紡績工の父と家政婦の母の長男に生まれた。家計に余裕がなく、奨学金を得ても授業料を払えず、マンチェスターの有名校への進学を断念した。地元の中等学校で学び、奨学金試験に二つ合格した。1908年にマンチェスター・ビクトリア大学へ進学した際、数学を学ぶつもりが手違いで物理学科に入った。そこでアーネスト・ラザフォードの下で研究し、1911年に優等で卒業、二年後に修士号を得た。
1913年、ヨーロッパで研究する奨学金を得てベルリンへ渡り、ハンス・ガイガーのもとでベータ線を調べた。精密な計数器を使い、ベータ線が飛び飛びの線ではなく連続したエネルギー分布を示すことを実験で確認した。第一次世界大戦が始まった時もドイツにいたため、ルーレーベン収容所に抑留され、四年間を過ごした。収容所の厩舎に実験室を設ける許可を受け、即席の器具や材料を用いて放射線と光化学反応の研究を続けた。1918年の休戦後に帰国し、戦時中の研究成果を委員会に報告した。
戦後はマンチェスターでラザフォードのもとに戻り、1919年にはケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所に移った。白金、銀、銅の核電荷を調べ、それが1.5パーセント未満の誤差で原子番号と同じであることを実験で見いだした。1921年に博士号を得て、十年以上にわたりラザフォードの研究助手として働いた。ここは当時、物理学の世界有数の研究拠点で、ジョン・コッククロフトやマーク・オリファントら多くの学生を惹きつけた。ラザフォードとともに学生に研究テーマを提案し、研究室の論文の編集も担った。1925年にはアイリーン・スチュワート=ブラウンと結婚し、1927年に双子の娘をもうけた。当時の原子核は陽子と電子から成ると考えられていたが、窒素原子核の質量や電荷は合ってもスピンを説明できない問題があった。1932年1月、同僚のフェザーから、ジョリオ=キュリー夫妻がポロニウムとベリリウムを用いてパラフィンから陽子を放出させたと知らされた。ラザフォードとチャドウィックは、陽子ではあまりに重く、電荷を持たない粒子の中性子ならより少ないエネルギーで同じ効果が出ると考え、中性子の可能性を確かめる研究に集中した。ポロニウムとベリリウムを組み合わせた装置を作り、反跳する陽子を調べて中性子の存在を示した。2月に短い報告を送り、5月には王立協会の紀要で発見を詳しく述べた。その後中性子の質量を測定し、がん治療に役立つ可能性も予想した。この成果によって1935年にノーベル物理学賞を受賞した。同年、リバプール大学の物理学教授となり、老朽化した実験室を改修してサイクロトロンを設置し、同大学を原子核物理学の研究拠点へ整えた。
第二次世界大戦中は英国の原子爆弾研究に参加し、1941年には「モード報告」の最終案を執筆した。この報告を受けて米国政府も原子爆弾研究を本格化させた。英国使節団の長としてマンハッタン計画に加わり、ワシントンとロスアラモスで働いた。1945年にはナイトに叙され、同年7月にトリニティ実験を目撃した。戦後は国連原子力委員会で英国の科学顧問を務めた。
大規模化する科学研究に違和感を覚え、ケンブリッジ大学のゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの学寮長に移り、1959年に退職した。中性子の発見をはじめとする物理学への貢献により、1935年にノーベル賞、1945年にナイトの称号を受けた。1974年7月24日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
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