HISTORICAL PERSON · 1974年没

アユーブ・ハーン

パキスタンの初代軍総司令官で第2代大統領。1958年のクーデターで政権に就き、1969年の暴動で辞任するまで務め、経済発展を進めた。

生涯
1974年没
死亡地
パキスタン共和国(パンジャーブ州 / ラーワルピンディー)
出生地
パキスタン共和国(Rehana)
出典
世界地図
パキスタン共和国(パンジャーブ州)

伝記

ムハンマド・アユーブ・ハーンは1907年5月14日、英領インドの北西辺境州ハリプル県のレハナ村に生まれた。パシュトゥーン人のタリン部族に属し、英領インド軍の騎兵連隊の元将校ミール・ダード・ハーンの二人目の妻の長子である。家庭ではパシュトー語と地元のヒンドコ語を話し、のちに英語とウルドゥー語も身につけた。最初の学校は村から6キロメートル余り離れたサライ・サーレフにあり、ラバに乗って通った。その後はハリプルの町で祖母の家に身を寄せて学び、1922年に中等教育の試験を終えると、アリーガル・ムスリム大学に進んだ。4年間学んだが学位を得る前にインドを離れ、イギリスのサンドハースト王立陸軍士官学校に入った。

士官学校で訓練を受けたのち、英領インド軍の少尉となり、パンジャーブ連隊の大隊に配属された。大尉まで昇進し、第二次世界大戦中の少佐昇進を経て、翌年には中佐となってビルマ戦線に加わった。1945年には大佐に昇進し、連隊の副指揮官としてビルマ戦役を戦ったが、この戦役の途中で一時的に「臆病」を理由に職務を停止されたとも伝えられる。終戦後は故郷の北西辺境州に戻り、准将としてワジリスターンに勤務した。このときは英領インド軍で最も階級の高いムスリムの将校であった。1947年のインド・パキスタン分離独立の際には、パンジャーブの国境軍で英国人将軍を補佐したが、のちに共同体間の衝突への対応が甘かったと非難された。パキスタンの成立後は新国家に残る道を選び、1948年に少将となって東パキスタンで一個師団を率い、この功で武功章ヒラール・エ・ジュラートを受けた。

1951年、リヤーカト・アリー・ハーン首相によって、パキスタン人として初めて陸軍総司令官に任命された。1954年には国防相にも就いた。1958年、イスカンダー・ミールザー大統領が憲法を廃して戒厳令を布告すると、これを支持してその執行者となり、約2週間後に無血のクーデターでミールザーを退け、自ら大統領の座に就いた。外交では前政権に続いて米英寄りの路線をとり、ソ連やインドと対立した。国内では新憲法を定め、経済と社会の改革を進めた。経済的な自由主義、富の一部の再配分、世俗的な改革、イスラームへの言及を組み合わせた政策であったとされる。1960年12月には国賓として日本を訪れ、昭和天皇と香淳皇后に会い、大勲位菊花大綬章を贈られて宮中晩餐会にも出席した。

当初は支持を集めたが、1965年の第二次インド・パキスタン戦争で国連の調停により約5週間で停戦すると、インドとの和平での譲歩に国民の不満がくすぶり始めた。激しい物価上昇も重なって各地で暴動が広がり、1969年に辞任し、再び戒厳令を宣言したヤヒヤー・ハーンに権力を譲った。1974年4月19日、イスラマバードで病没した。その10年間は「発展の10年」と呼ばれ、経済成長と工業化が評価される一方、諜報機関が国政に入り込む端緒となったこと、富が腐敗した少数に集まったこと、のちのバングラデシュ独立戦争につながる地域間の差別的な政策をとったことは批判されている。パキスタンで初めてクーデターを起こした将軍として、文民と軍の対立が繰り返される流れの始まりにも位置づけられる。

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