伝記
ミゲル・アンヘル・アストゥリアスは、1899年10月19日にグアテマラの首都グアテマラ市で生まれた小説家である。父は判事、母は教師だった。父は独裁者エストラーダ・カブレーラに反対する立場をとり、学生たちを釈放した一件で独裁者と衝突して職を失ったとされる。一家は祖父母のもとに身を寄せ、少年は地方の農場で暮らすことになった。この地で出会ったのが先住民の乳母で、彼女が語り聞かせた神話や伝説は、のちの作品に大きな影響を与えたという。
1908年ごろに一家は首都近郊へ戻り、少年はそこで青年期を過ごした。1917年にサン・カルロス大学の医学部に入ったが、やがて法学部へ移った。1920年にエストラーダ・カブレーラが失脚する運動が起こると、友人たちとともに学生運動に加わり、学生新聞の発行にも関わった。1922年には夜間の民衆大学の設立に参加し、労働者に文法を教えた。同じ年に書いた卒業論文「インディオの社会問題」が注目を集め、翌年に出版された。しかし軍を批判する言動が当局の不興を買い、身の危険を感じたため、1923年に大学を卒業するとフランスのパリへ渡り、ソルボンヌ大学に留学した。
パリでは人類学者ジョルジュ・レイノーに師事し、中央アメリカの古代文明を研究した。詩や小説を書き始めたのもこの頃である。ダダイストのトリスタン・ツァラ、シュルレアリストのブルトン、アラゴン、エリュアールらと親しく交わった。また、マヤ系キチェ族の創世神話『ポポル・ヴフ』と、カクチケル族の『シャヒル年代記』を、レイノーによるフランス語訳からスペイン語に訳した。こうした研究と創作を結びつけた『グアテマラ伝説集』は1930年にスペインで出版され、翌年にフランス語訳が出ると、シュルレアリストから高く評価された。ポール・ヴァレリーも、ラテンアメリカという魔術的な世界への驚きとともにこれを絶賛し、著者は一躍注目を浴びた。
1933年にグアテマラへ戻るとジャーナリストとして働いたが、独裁者ホルヘ・ウビコに近い人物と見られたため、1944年にウビコが失脚すると、外交官として閑職に回された。この時期に『大統領閣下』(1946年)、『トウモロコシの人間たち』(1949年)、『緑の法王』(1954年)を著した。1954年の作戦の後にカスティーリョ・アルマス政権が成立すると亡命生活を送り、その間に書いた『混血女』(1963年)で広く作家として知られるようになった。アルマス政権が崩壊したのち、1966年にはフランス大使に任じられ、同年レーニン平和賞を受けた。翌1967年にはノーベル文学賞を受賞した。ラテンアメリカの作家としては、1945年のガブリエラ・ミストラルに次ぐ二人目の受賞である。
晩年はスペインのマドリードで過ごし、1974年6月9日に伝染性の呼吸器疾患で亡くなった。74歳だった。墓はパリのペール・ラシェーズ墓地にあるとされる。先住民の物語や古代マヤの研究を融合した作品群と、独裁体制や外国資本による搾取を扱った「抗議の文学」の二つの系列があり、シュルレアリズムとマヤの神話を溶け合わせた文体で、キューバのカルペンティエルとともに魔術的リアリズムの担い手と呼ばれる。のちのラテンアメリカ文学ブームを先導した作家である。
同じ年に亡くなった人物
- ハイメ・トレス・ボデー (1974年没)
- ヴィンフリート・オットー・シューマン (1974年没)
- Rajani Palme Dutt (1974年没)
- レオン・シャムロイ (1974年没)
- ヘイゼル・ホッチキス・ワイトマン (1974年没)
同じ地域に関係する人物
- フランシスコ・エルナンデス・デ・トレド (1587年没)
- エンリケ・リステル (1994年没)
- フランシスコ・ヘント (2022年没)
- イグナシオ・スロアガ (1945年没)
- フアン・アルバレス・メンディサバル (1853年没)