伝記
ヘロデス・アッティコスは、ローマ帝国期のアテナイの大富豪で、政治家にしてギリシア語の弁論家である。101年頃に生まれ、177年頃に没した。第二次ソフィストの代表格とされ、ハドリアヌス帝やマルクス・アウレリウス帝に重んじられた。パナシナイコスタジアムやヘロデス・アッティコス音楽堂の建設者としても知られる。
アテナイ郊外のマラトンに生まれ、ミルティアデスやキモンの末裔を称する名家の出である。祖父の代にはフラウィウス朝の皇帝に財産を没収されて没落したが、ネルウァから財産の回復を認められ、自宅で埋蔵金を見つけて再び富を築いたという。父は元老院議員から執政官にまで進んだ最初のアテナイ人で、母は富裕な家の令嬢アグリッピナだった。ヘロデスの莫大な財産は、この両親に由来する。11歳か12歳でローマに送られてラテン語を学び、上流貴族と交わった。125年にはハドリアヌスから、アシア属州の自由都市の監督者に任じられ、スミュルナでファウォリヌスに学んだ。ファウォリヌスが没すると、ローマの邸宅や蔵書などを遺贈された。のちにアテナイに戻って教師として名を上げ、126年から127年頃にはアルコンを務めた。
140年、アントニヌス・ピウス帝に招かれてローマに赴き、養子であるマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスを教えた。同じ頃に14歳のレギッラと結婚した。彼女はローマの元老院家系の令嬢である。143年には友情の証としてアントニヌスから執政官に任じられた。その後はギリシアに定住し、古代ギリシアの復興をめざして私財を投じ、土木や慈善の事業を行って民衆の人気を得た。143年頃にはパナシナイコスタジアムを総大理石で改築し、その工事はペンテリコン山の石切り場が枯渇するほどだったとパウサニアスは述べる。コリントス地峡の開削も試みたが、果たせなかった。オリュンピアのニュンパイオンやアレクサンドリア・トローアスの水路橋なども、彼にまつわる建造物である。
私生活には不幸が続いた。レギッラとの間に6人の子をもうけたが、第4子を除いて全員が早く亡くなり、ヘロデスは追悼のために墓碑や像を建てた。150年代末か160年頃、身重のレギッラが没すると、その弟から殺害の容疑で告訴された。解放奴隷が腹部を蹴ったのが原因で、ヘロデスが命じたとの主張だったが、マルクス・アウレリウスは旧師を無罪とした。真相には現在も諸説ある。160年頃、レギッラの追悼のためにアテナイに音楽堂を建てた。実子のほかに養子兼弟子も持ち、彼らが早世した際にも墓碑や像を建てた。なかでもポリュデウケスの死には自失するほど悲嘆したという。
弁論は、即位直後のハドリアヌスの前で行ったときには失敗したという。それでも「弁舌の王」「ギリシアの舌」とも称されたが、ほぼすべて失われている。教え子にはマルクス・アウレリウスがいた。あるとき「哲学者」を名乗る物乞いが訪れると、長い髭とギリシア風の外套だけで哲学者を名乗ることを非難しながらも大金を与えたといい、この逸話はゲッリウスが伝え、「髭は哲学者をつくらず」という成句の由来になった。晩年はアテナイの僭主と呼ばれて市民と衝突し、弟子を連れてマラトンに隠居して同地で没した。没後、市民は遺志に反して彼をアテナイ市内に葬った。墓の場所については、スタジアム東の丘とする説が長く定説だったが、1990年代からはほかの説も唱えられている。