伝記
エーリッヒ・フォン・マンシュタインは一八八七年、ベルリンに生まれた。父エドゥアルトは砲兵大将で、父母双方の家はプロイセンの軍人貴族であった。出生前から、子のなかった叔母ヘートヴィヒとその夫ゲオルクの養子となることが決められており、彼はフォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタインという二重の姓を名乗った。父の赴任に伴い各地で育ち、一八九六年から四年間はシュトラスブルクの小学校に通った。一九〇〇年、十三歳で陸軍幼年学校に入り、続いてベルリンのプロイセン陸軍士官学校で学んだ。一九〇六年に近衛歩兵連隊へ士官候補生として入り、翌年少尉となった。
一九一三年に陸軍大学校へ進み、翌年に第一次世界大戦が始まると、修了前に軍務へ移った。マルヌ会戦に参加した後、東部戦線で肩と左膝を負傷し、野戦病院で半年ほど療養した。一九一五年に参謀将校として復帰し、ポーランドやセルビアで戦った。一九一六年にはヴェルダン、ソンムの戦いに参加し、翌年はエストニア、一九一八年には西部戦線に赴いた。ドイツ革命で皇帝が退位すると、君主制を軍の基盤と考えていた彼は深く失望した。終戦後は東部防衛隊に加わり、軍縮下の共和国軍に残った。上官ゼークトの助言を受け、政治的な考えを脇に置いて軍務に専念する決意をした。一九二〇年にユッタ・フォン・レシュと結婚し、娘一人と息子二人をもうけた。長男ゲーロは一九四二年に東部戦線で戦死した。
一九二〇年代には参謀本部の各部門や歩兵部隊で勤務し、少佐、中佐へ昇進した。一九二九年には兵務局の作戦部門に移り、動員計画の弱点を指摘して修正を求めた。ヒトラーが首相になった当初は、ヴェルサイユ条約を改める主張に共感し、独裁的な指導者にも期待を寄せた。しかし一九三四年、陸軍に導入された人種条項に反対し、すでに軍に在籍するユダヤ人兵士の排除に抗議した。この抗議は新たなユダヤ人の入隊禁止には触れていなかった。一九三五年に参謀本部作戦部長となり、翌年には参謀本部第一部長としてベック参謀総長を支えた。歩兵を支援する突撃砲の開発も提案した。一九三八年、ブロンベルク=フリッチュ罷免事件後の人事で、レグニツァの第18歩兵師団長に左遷された。国防軍最高司令部総長となったカイテルがライバルのマンシュタインを嫌い、遠ざけようとしたためだという。
第二次世界大戦では、ポーランド侵攻に備えて南方軍集団の参謀長となり、装甲部隊を集中してポーランド軍を包囲する計画を立てた。ポーランド戦がドイツを二正面作戦に引き込むことを懸念していたが、ラドムの包囲を進言し、成功に結びついた。続くフランス侵攻では、戦車部隊が進みにくいと考えられていたアルデンヌを通り、英仏連合軍を分断する案をまとめた。陸軍総司令部はいったん退けたが、ヒトラーは修正案を採用し、この作戦は後にマンシュタイン計画と呼ばれた。マンシュタイン自身は東部へ移されたものの、フランス侵攻では元部下たちがセーヌ川まで進み、作戦成功後、彼は騎士鉄十字章を受けた。その後、クリミア半島とレニングラードへの攻撃を指揮し、スターリングラード攻防戦後に優位に立った赤軍の攻勢を食い止め、第三次ハリコフ攻防戦でハリコフを陥落させた。これは東部戦線におけるドイツの最大級の勝利の一つとされる。ヒトラーの決定には逆らわなかったが、対案を示して意見をはっきり述べる数少ない将軍の一人であり、その名将ぶりは戦時中のアメリカでも知られ、『タイム』誌の表紙を飾って「我らの最も恐るべき敵」と評された。最終階級は陸軍元帥で、一九七三年六月十日に死去した。
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