伝記
パーヴォ・ヨハンネス・ヌルミは1897年、フィンランドのトゥルクで、大工の父と母の間に生まれた。家計が苦しく、父と妹を早くに失った一家は、狭い住まいで暮らした。ヌルミは12歳で学校を離れ、パン屋の使い走りとして働いて家計を支えた。重い荷車を押して坂道を上る仕事は、本人の回想では脚や背中を鍛えることにもなった。15歳のとき、1912年ストックホルム五輪でハンネス・コーレマイネンが勝ち、フィンランドの名を世界に広めたことに強く刺激を受けた。ヌルミは運動を再開し、夏はクロスカントリー走、冬はスキーを行い、歩行や短距離走も取り入れた。
1919年に兵役に就くと、訓練の合間にも走り続け、競技会で頭角を現した。重い装備を背負って走る練習をするなど、自分の走りを鍛える方法を工夫した。1920年のアントワープ五輪で国際舞台に登場し、5000メートルでは銀メダル、10000メートルとクロスカントリーでは金メダルを得た。ヌルミが五輪でフィンランド以外の選手に敗れたのは、この一度きりだった。敗北をきっかけにレースを細かく分析し、ストップウオッチを手に一定の速度を保つ走法を磨いた。全距離のペースを自ら管理するこの方法は、相手の動きに左右されにくい強さをもたらした。
1921年のストックホルムで10000メートルの初の世界記録を作り、1922年には2000メートル、3000メートル、5000メートルの記録を塗り替え、1923年には1500メートルとマイルの記録も更新した。1マイル、5000メートル、10000メートルの世界記録を同時に保持した選手は、2017年時点でも他にいない。1924年のパリ五輪の前には、日程を試すためヘルシンキで1500メートルと5000メートルを1時間以内に走り、両方で世界記録を更新した。本番でも二つの競走の間は2時間足らずだったが、どちらも制した。酷暑のクロスカントリーでも勝ち、このパリ五輪で金メダルを5個獲得した。彼は通算三度の五輪で九個の金メダルと三個の銀メダルを得て、公式の世界記録を22個作った。800メートル以上の競走では121連勝し、クロスカントリーと10000メートルでは競技生活を通じて負けなかった。フィンランド当局がパリ五輪の10000メートルへの出場を認めなかったことには、強い不満を示した。1925年の米国遠征では五か月に55競技へ出場し、多くの勝利を重ねた。その後も競技を続け、1928年アムステルダム五輪では10000メートルで再び金メダルを得た一方、5000メートルと3000メートル障害では銀メダルだった。その後、一時間走と25マイル走でも世界記録を打ち立てた。
ヌルミは憧れのコーレマイネンにならい、選手生活をマラソンの五輪金メダルで締めくくろうとした。しかし1932年ロサンゼルス五輪の直前、国際陸上競技連盟はアマチュア資格に疑問を呈し、開会式の二日前に参加資格を取り消した。プロ選手と正式に認定されたわけではなかったが、資格の取り消しは1934年に確定し、ヌルミはそのまま引退した。その後はフィンランドの選手を指導し、冬戦争中には募金活動に協力した。事業や建築業にも携わり、1952年のヘルシンキ五輪では最終聖火ランナーを務めた。フライング・フィンの異名で知られたヌルミの記録と、時計を用いた分析的な練習法は、後の中長距離走者にも影響を与えた。1973年10月2日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァルター・ウルブリヒト (1973年没)
- クラレンス・ホワイト (1973年没)
- ジェイムズ・ウィルソン (陸上選手) (1973年没)
- スティーブ・シーモア (1973年没)
- コンスタンディノス・ゲオルガコプロス (1973年没)
同じ地域に関係する人物
- レンナルト・オシュ (1978年没)
- マッティ・ヤルビネン (1985年没)
- エドワード・ウェスターマーク (1939年没)
- カール・ルードヴィッヒ・エンゲル (1840年没)
- アルヴァ・アールト (1976年没)