伝記
ヴァルター・エルンスト・パウル・ウルブリヒトは、1893年6月30日にライプツィヒで、仕立て屋の息子として生まれたドイツの共産主義者である。両親はドイツ社会民主党の熱心な活動家だった。小学校を出ると指物師の修行をしつつ、社会民主党の活動にも加わり、1912年に入党した。1915年から1917年まで第一次世界大戦に出征し、ガリツィアやバルカン戦線で戦ったが、戦争に当初から反対していたため、1917年に部隊を脱走して投獄され、ドイツ革命のさなかの1918年に出獄した。戦後の1920年にドイツ共産党員となり、1924年から翌年にかけてモスクワの国際レーニン学校でコミンテルンの指導を受けた。1926年にザクセン州議会議員、1928年から1933年には国会議員を務めた。
1933年1月にナチスが政権を握ると共産党員と社会民主党員への大規模な弾圧が始まり、共産党指導者テールマンが3月に逮捕されると、ウルブリヒトが代わりの指導者に担ぎ上げられた。1933年から1937年までパリとプラハに亡命し、1937年から1945年まではソ連で過ごした。1941年のドイツのソ連侵攻後は、内務人民委員部の監督下にあるドイツ人共産主義者のグループで活動し、プロパガンダ文書の翻訳や、東部戦線のドイツ軍への宣伝放送、捕虜の尋問を行い、のちに自由ドイツ国民委員会を組織した。ソ連の副首相ベリヤは、そんな彼を「かつて見たことのない大馬鹿者」と評したという。心の底からスターリニズムを信じる非現実的な人物だったからとされる。
1945年4月、ウルブリヒト・グループは占領下のドイツに送られ、ドイツ共産党の再建を始めた。1946年にソ連占領地区で、共産党と社会民主党が半強制的に合併して、ドイツ社会主義統一党が誕生した。1949年10月にドイツ民主共和国が成立すると、党の書記長(のち第一書記)に就任し、実権を掌握した。1953年の東ベルリン暴動は、ソ連軍の手も借りて鎮圧した。1956年にソ連でスターリン批判が行われると、一転して批判的な立場をとり、巻き返しを図った党内の反対派を失脚に追い込んだ。1960年に大統領のピークが没すると、大統領制を廃止して、国家評議会議長として国家元首も兼ねた。
農業集団化や国有化による経済の混乱で、自営農民の西ドイツへの逃亡が増え、食糧と日用品が不足して生活水準は急低下した。国民の脱出を防ぐため、1961年にはベルリンの壁の建設に至った。彼は壁の建設のわずか2か月前の取材には、「西ベルリンを囲う計画などない」と強く否認していた。1968年のプラハの春には強い懸念を示し、軍事介入に賛同した。ただし、自らへの個人崇拝は確立せず、反対派を刑務所に送ることはあっても、処刑は努めて避けた。1963年以降は、経済アドバイザーとともに、企業の独自採算制を導入する「新経済システム」で効率的な経済を作ろうとし、1960年代の東ドイツ経済を発展させたが、党内では評価が低く、ホーネッカーとソ連のブレジネフの下で反対派が大きくなった。
ブラント首相の東方外交による西ドイツとソ連の関係改善にも反対したため、ソ連指導部に疎んじられるようになった。1971年1月、ホーネッカーら13名の政治局員とその候補が、ウルブリヒトの解任をブレジネフに要請し、5月3日、「老齢と健康上の理由」で第一書記を退いた。国家評議会議長には留まったが、実権はホーネッカーに移った。1973年8月1日に東ベルリン近郊で死去し、大規模な国葬で見送られたが、彼の名を冠した街路や工場は死後短期間で改名された。
同じ年に亡くなった人物
- ロバート・マーフィー (1973年没)
- ヴェルナドスキー (1973年没)
- ジョン・クランコ (1973年没)
- ボビー・ダーリン (1973年没)
- Emile Masson (1973年没)
同じ地域に関係する人物
- Philipp Jaffe (1870年没)
- エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン (1922年没)
- エリーザベト・ゾフィー・フォン・ブランデンブルク (1589-1629) (1629年没)
- ヴァルデマール・フォン・プロイセン (1868-1879) (1879年没)
- ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー (1751年没)