伝記
ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフは、1894年4月に、ロシア帝国のクルスク県カリノフカ村で、炭鉱夫の父セルゲイと母クセーニャの子として生まれたソビエト連邦の政治家である。1953年から1964年までソ連共産党中央委員会第一書記、1958年から1964年まで閣僚会議議長(首相)を務め、11年間にわたって国の最高指導者であった。両親は貧しい農民で、母方の祖父は農奴であった。カリノフカは貧しい村で、のちに師となる教師リディア・シェフチェンコは、これほど貧しい村は見たことがないと語っている。フルシチョフは幼い頃から牧童として働き、村の学校で4年間、シェフチェンコの指導を受けた。彼女は進学を勧めたが、家計がそれを許さなかった。
1908年に家族とともにウクライナ・ドンバス地方のユゾフカに移り、14歳の暮れに働き始め、金属鍛冶の見習いを経て、工場や鉱山で働いた。第一次世界大戦では熟練の金属工だったため徴兵を免除され、賃金や労働条件の改善と戦争終結を求めるストライキに関わった。1914年にエフロシーニャ・ピサレワと結婚し、1915年に娘ユリヤ、1917年に息子レオニードが生まれた。1917年にはルチェンコヴォの労働評議会に選ばれ、5月に議長となった。ボリシェヴィキに加わったのは1918年のことである。内戦が起こり、1918年の終わりか1919年の初めに、政治将校として赤軍に動員された。政治将校の役目は、軍の士気を高め、臨戦態勢を整えることであった。1921年に内戦が終わって復員したが、その間に妻がチフスで亡くなっていた。同年ルチェンコヴォ鉱山の政治担当副所長に任命され、機械の再稼働を助け、鉱山の生産を軌道に乗せることにも関わった。
1922年に、ユゾフカに新設された工科大学の労働者向けの課程に入り、入学の直後に大学全体の党書記に任命された。党の活動に専念して学業に時間をさけなくなり、課程を修了したかどうかは定かではない。1925年にはペトロヴォ・マリンスキー地区の党書記となり、同じ年にモスクワの党大会の代表にも選ばれた。この頃、ラーザリ・カガノーヴィチがウクライナの共産党の首脳となり、フルシチョフは彼の庇護のもとで急速に昇進した。1929年にカガノーヴィチに従ってモスクワに行き、産業アカデミーに入学した。党内の権力闘争に勝って学校の党書記となり、やがてモスクワのバウマン地区、クラスノプレスネンスキー地区の党指導者を経て、1932年までにモスクワの党組織でカガノーヴィチに次ぐ第2位の地位に就き、1934年にはモスクワ市の党組織指導者と、党中央委員会の委員になった。カガノーヴィチとともにモスクワ地下鉄の建設を監督し、予定より遅れて1935年5月1日に開業すると、レーニン勲章を授与された。その後、モスクワ州の第一書記となった。
1930年代には、スターリンとの関係も良好だった。1936年には、モスクワ裁判を強く支持する発言を行い、モスクワ州では多くの友人や同僚の粛清を支援した。1953年9月に第一書記となり、1956年2月のスターリン批判で、その独裁と恐怖政治を世界に暴露して、非スターリン化を掲げた。西側との平和共存を図り、軍縮と宇宙開発競争を進めた。一方で、中華人民共和国やアルバニアと激しく対立し、ハンガリー動乱では軍事介入を行い、キューバに核ミサイルを配備してキューバ危機を招いた。無神論者であったため宗教への弾圧も再び強めた。1964年10月に失脚し、1971年9月11日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- エルデイ・フェレンツ (1971年没)
- シリル・バート (1971年没)
- Rodolfo Terlizzi (1971年没)
- フランチシェク・フルビーン (1971年没)
- リチャード・マルケイ (1971年没)
同じ地域に関係する人物
- パーヴェル・スホーイ (1975年没)
- ミハイル・ボトヴィニク (1995年没)
- ワシリー・アガプキン (1964年没)
- ウラジーミル・イワシコ (1994年没)
- ピョートル・ポスペーロフ (1979年没)