伝記
ロレンツォ・デ・メディチは、1449年1月1日に、フィレンツェのメディチ家の当主ピエロと母ルクレツィア・トルナブオーニの長子として生まれた。祖父は、フィレンツェ一番の富豪と言われたコジモである。ロレンツォは「イル・マニーフィコ(豪華王)」とも呼ばれ、孫のロレンツォ2世と区別して大ロレンツォとも記される。幼いころから将来の指導者としての教育を受け、近隣の王侯貴族とも交流した。若いころは年上の貴族の子弟を中心とする遊興の集団に加わり、派手な服装で宮廷風の恋愛遊戯を楽しんだ。画家ボッティチェリもその一員だったという。快楽主義的な一面と、のちの厳格な指導者としての面をあわせもったのが特徴とされる。
1467年には、父ピエロの貸付回収計画に端を発して、高地派を中心とする反メディチ派の動きが表面化した。1469年2月、成人の祝典としてサンタ・クローチェ広場で馬上槍試合を催し、ヴェロッキオが旗を担当した。同年6月にはローマの名門オルシーニ家の娘クラリーチェと政略結婚した。痛風を患う父に代わり、母がローマに赴いて探した縁談であり、結婚式ではメディチ家の屋敷を開放して大宴会が開かれた。同年12月に父が没すると、20歳でメディチ家の当主となり、フィレンツェの最高権力者となった。ただし財産は、コジモの時代に比べ、父の大規模な貸付回収計画で周辺諸国の警戒を招いたこともあって、下降気味の状態で引き継いだ。
治世の初期、1470年のプラートの反乱では、実行者を厳しく罰する一方、共謀者は赦免して寛大さを示した。1471年のヴォルテッラの暴動では、フィレンツェの染色に欠かせない明礬の採掘権をめぐって鎮圧が行われ、翌1472年には、従属都市ピサとの親善のため市民法の講座をピサに移す大学改革も行った。教皇シクストゥス4世が即位するとメディチ家は敵視され、1474年にはヴェネツィア・ミラノと同盟して対抗した。1478年、フィレンツェ大聖堂のミサの席でパッツィ家の陰謀に遭い、弟ジュリアーノは殺されたが、ロレンツォはかろうじて逃れた。暗殺者らは市民に反乱を呼びかけて失敗し、捕らえられて処刑された。容赦のない処置はパッツィ家と結んでいた教皇を激怒させてパッツィ戦争となり、ロレンツォはピサ港からナポリへ赴いて約3か月にわたり交渉した。1480年3月13日にナポリ王フェランテを説得してリヴォルノに帰着し、この危機を乗り切ると、ロレンツォの支配体制は確固としたものになった。
その後はイタリアの勢力均衡を保つ調停者として外交手腕をふるい、財と個人的魅力で安定を実現した。1481年にはシクストゥス4世との和平の証として、ペルジーノ、ボッティチェリ、ギルランダイオらをヴァティカンのシスティーナ礼拝堂の装飾に派遣し、学者フィチーノからは『プラトン神学』を献じられた。文学や芸術の庇護者として知られ、有望な芸術家を人々に紹介する形の支援が中心であった。一方で、修道士サヴォナローラの説教は禁止せず、ひそかに関心を寄せたとされるが、間接的な妨害も行ったという。1485年から1489年にかけては、ポッジョ・ア・カイアーノに、アルベルティの影響を強く受けた古代趣味の別荘を建てた。この時代はルネサンス最盛期となったが、メディチ銀行のリヨン支店は1488年に閉鎖され、経営の内実は巨額の赤字で破綻寸前だった。公金にも手を付けたといわれる。ロレンツォは1492年4月8日に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- Jaume Huguet (1492年)
- ベルトラン・デ・ラ・クエバ (1492年)
- アントワーヌ・ビュノワ (1492年没)
- Hernando del Pulgar (1492年)
- インノケンティウス8世 (ローマ教皇) (1492年没)
同じ地域に関係する人物
- テレマコ・シニョリーニ (1901年没)
- フランチェスコ・ランディーニ (1397年没)
- ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ (1469年没)
- Miguel Montuori (1998年没)
- Pedro Alvarez de Toledo, Marquis of Villafranca (1553年没)