伝記
フランチェスコ・ランディーニは、14世紀後半のイタリアで最も有名で尊敬された作曲家のひとりで、オルガン奏者、歌手、詩人、楽器製作者でもあった。生まれた年は1325年ごろとも1335年ともいわれる。生まれはフィレンツェとされるが、人文主義者クリストフォロ・ランディーノはフィエーゾレとしている。幼いころに天然痘にかかって失明し、早くから音楽に打ち込んで、リュートをはじめ多くの楽器の演奏と、歌、詩作、作曲を身につけた。フィレンツェの年代記作者フィリッポ・ヴィッラーニは、彼がリュートとプサルテリウムの特徴をあわせた「シレーナ・シレナールム」という弦楽器を発明したと書いている。この楽器はバンドゥーラの先祖と考えられている。ランディーニという姓は後世になって彼に結びつけられたもので、近年の研究者は「オルガンのフランチェスコ」「盲目のフランチェスコ」などの呼び名を好んで用いる。ランディーニの父を画家ヤコポ・デル・カセンティーノとする説は、いまでは受け入れられていない。
若くして1350年代の初めにはすでに活動しており、ペトラルカと親しかった可能性が高い。ヴィッラーニによると、1360年代に何度かヴェネツィアに滞在したキプロス王から月桂冠を授けられた。1370年より前には北イタリアで過ごしたこともあるらしく、ヴェネツィアのドージェを1368年から1382年まで務めたアンドレア・コンタリーニに献呈されたモテットが、その証拠のひとつとされる。1361年にはフィレンツェのサンタ・トリニタ修道院のオルガン奏者に雇われ、1365年以降はサン・ロレンツォ聖堂で働いた。ヴィッラーニによれば、当時の政治的・宗教的な論争に深くかかわったが、フィレンツェ当局の好意は受け続けていたようである。サンタ・トリニタではロレンツォ・ダ・フィレンツェと同じ職場にいた。1370年代にはアンドレア・ダ・フィレンツェと知り合った。1375年ごろか、そのすぐあと、アンドレアはフィレンツェの聖母下僕会のオルガン製作の相談役として彼を雇った。楽器を調律した3日間に2人が飲んだワインの領収書が残っている。1379年にはサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂で新しいオルガンの製作を助け、1387年にはフィレンツェ大聖堂のオルガン建造計画にも加わった。
多くの同時代の作家が、作曲家としてだけでなく、歌手、詩人、オルガン奏者、そして情熱的に献身的なフィレンツェ市民としての名声を証言している。1389年に書かれたジョヴァンニ・ダ・プラートの『アルベルティの楽園』には、ランディーニ自身が語ったとされる短い物語がおさめられている。1397年9月2日に没し、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂に葬られた。墓石は19世紀まで行方が分からなかったが、いまは教会に再び展示され、携帯用オルガンらしきものを持つ彼の姿が刻まれている。
現存する作品は、ほとんどが世俗音楽である。宗教音楽を作った記録はあるが、1曲も残っていない。残っているのは、2声のバッラータ89曲、3声のバッラータ42曲、2声と3声の両方の版があるバッラータ9曲と、少数のマドリガーレである。自作の詞を多く自分で書いたと考えられている。作品は主にスクアルチャルーピ写本に残り、現存する14世紀のイタリア音楽のほぼ4分の1にあたる。「ランディーニ終止」という終止の手法にも名を残すが、これは彼が始めたものでも、彼の作品だけの特徴でもなく、現存する作品で最も早く用いたのはゲラルデッロ・ダ・フィレンツェである。
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