伝記
ジャーミーは、15世紀のイランで活躍したスーフィーであり詩人である。本名はヌールッディーン・アブドゥッラフマーン、1414年11月7日にホラーサーン地方のヘラート近郊の町ジャームで、裁判官ニザームッディーン・アフマドの家に生まれた。雅号の「ジャーミー」は出身地ジャームにちなみ、初めは一族の出身地ダシュトにちなむダシュティーの雅号を用いていた。ティムール朝の時代は近世ペルシア文学が衰退期にさしかかっていたが、その中で優れた詩を残したため、「詩人たちの最後」「最後の詩人」と呼ばれる。詩作や神学のほか、ハディース、アラビア語文法、イスラーム哲学、音楽にも深い学識をもっていた。
5歳のとき、メッカ巡礼の途上でジャームに立ち寄ったナクシュバンディー教団のホージャ・ムハンマド・パールサーに出会い、幼いころからスーフィズムに強い関心を抱いた。この喜びは、後年の『親愛の息吹』の中で回想されている。幼いうちに一家はヘラートに移り、ニザーミーヤ学院で学んだ。成長すると、ウルグ・ベクが統治するサマルカンドに留学して神学、法学、哲学、文学を修め、師のカーディー・ザーデは彼の素質を高く評価したという。9年に及ぶとされる留学ののちヘラートに戻り、シャー・ルフの建てた学校で教師を務めた。内面と向き合うなかで精神に大きな変化があったと言われ、ナクシュバンディー教団のサアドゥッディーン・カーシュガリーに師事してスーフィズムの世界に身を置いた。のちにカーシュガリーの孫娘と結婚したとも伝えられ、1453年からはスーフィーの導師として活動した。名声が高まると、西方の黒羊朝や白羊朝の君主からも目をかけられた。
ヘラートの支配者フサイン・バイカラの庇護を受け、アリー・シール・ナヴァーイーやホージャ・アフラールら文人・宗教家と交わった。マシュハド巡礼などを除き、生涯の大半をヘラートで過ごしたが、1472年にはバグダードを経てメッカ巡礼を果たし、ダマスカス、アレッポ、タブリーズに立ち寄って帰った。四人の息子のうち三人は一歳になる前に亡くなり、残った息子ズィヤーウッディーン・ユースフのために『春の園』を書いたと伝えられる。
韻文の代表作は、ニザーミーの「五部作」に対抗して書かれた七部構成のマスナヴィー形式の長編詩「七つの王座」である。1468年に第1作『黄金の鎖』を書き始め、1485年に最終作『アレクサンダーの英知の書』を書き終えた。なかでも1483年の『ユースフとズライハー』は、クルアーン第12章にもとづき、最も評価が高い。死後にサファヴィー朝のイスマーイール1世の王子サーム・ミールザーが作品を整理して45を確認し、現在は46の著作が知られる。抒情詩を集めた詩集や、約600人のスーフィーの伝記を収めた『親愛の息吹』などの散文も残した。技量は先人のニザーミーやサアディーに及ばないとも評されるが、平易な文体のため、インドやオスマン帝国など非ペルシア語圏でも名声を得た。オスマン皇帝メフメト2世やバヤズィト2世はイスタンブールに彼を招こうとしたが、実現しなかった。
晩年は老衰が著しく、最後は発狂したと伝えられる。1492年11月9日にヘラートで没し、葬儀には王子や重臣が全員参列し、友人ナヴァーイーによれば、参列者は先を争って棺を運ぼうとした。存在一性論の立場で書いた論文『閃光の輝き』と『閃光』は、中国語に訳されて中国のイスラーム思想に多大な影響を及ぼしたという。
同じ年に亡くなった人物
- 金宗直 (1492年没)
- ロレンツォ・デ・メディチ (1492年没)
- クリスティーナ・アブラハムスドッテル (1492年)
- アントワーヌ・ビュノワ (1492年没)
- Dionysius I of Constantinople (1492年)
同じ地域に関係する人物
- ミール・アリー・シール・ナヴァーイー (1501年没)
- アブドッラー・アンサーリー (1089年没)
- Husain Waiz Kasifi (1504年没)
- ギヤースッディーン・ムハンマド (1202年没)
- ペーローズ1世 (484年没)