伝記
ペータル2世・カラジョルジェヴィッチは、1923年9月6日、ベオグラードで、ユーゴスラビア王アレクサンダル1世と、ルーマニア国王フェルディナンド1世の王女マリヤの長男として生まれ、ユーゴスラビア王国の第2代にして最後の国王となった。名付け親には、母方の祖父フェルディナンド1世らがいた。教育は王宮での家庭教師に始まり、次いでイングランドのサリー州にある私立学校に通った。1934年10月9日、フランスを公式訪問中の父王がマルセイユで暗殺されたため、十一歳で即位したが、幼少のため父の従弟パヴレ公が摂政についた。
パヴレは、アレクサンダル王が残した国のかたちを変えず、息子が十八歳になる1941年9月に、そのまま引き渡そうと考え、1931年の憲法の改正の試みを退けた。1939年8月には、首相とクロアチア農民党の党首の協定により、広い自治をもつクロアチア州が作られたが、セルビア人には不評で、パヴレと首相は「クロアチア人に売り渡した」と非難された。この不人気は、1941年のクーデターの理由の一つとなった。同年3月25日、パヴレは、ユーゴスラビアが日独伊三国同盟に参加すると声明した。ペータル2世と宮中顧問官らは、ナチス・ドイツとの同盟に反対だった。二日後の3月27日、十七歳の国王は、イギリスの支援を受けたクーデターで成年と宣言され、親政を敷いた。クーデターは無血で成功し、ドゥシャン・シモヴィッチ将軍が率いる部隊が王宮へ向かうと、ペータルは排水管をつたって降り、反乱軍を出迎えたという。ベオグラードの群衆は熱狂して国王を迎えた。
しかしドイツは、バルバロッサ作戦を延期してユーゴスラビアとギリシャを同時に攻撃し、4月6日から三日三晩、ベオグラードを猛爆した。一週間足らずでドイツ、ブルガリア、ハンガリー、イタリアが国を制圧し、政府は4月17日に降伏した。国は分割され、傀儡政権のクロアチア独立国が建てられた。国王は政府首脳とともに祖国を離れ、ギリシャを経てエルサレムやカイロに渡り、1941年6月にイギリスに到着して、多数の亡命政府に加わった。ケンブリッジ大学での課程を修了し、イギリス空軍にも加わっている。国内では二つの抵抗武装組織が生まれた。王党派の国防相ドラジャ・ミハイロヴィッチ将軍が率いるチェトニックと、共産主義者でのちにティトーの名で知られるヨシップ・ブロズが率いるパルチザンである。連合国は初めミハイロヴィッチを支持したが、すぐティトーを支持した。
1944年3月20日、ロンドンでギリシャ国王アレクサンドロス1世の王女アレクサンドラと結婚し、翌年に一人息子のアレクサンダルが生まれた。亡命中の1945年11月29日、共産党政権下の憲法制定議会は王制を廃止したが、本人は決して退位を宣言しなかった。戦後はアメリカに定住し、長く健康を損ね、うつ病や飲酒にも苦しんだ。肝不全の治療のため移植手術も受けた。1970年2月にロサンゼルスへ移り、10月に肺炎で重体となり、11月、ロサンゼルス市内の病院で四十七歳で亡くなった。遺体はイリノイ州リバティービルの聖サヴァ修道院教会に葬られ、ヨーロッパで唯一、アメリカの土に葬られた君主となった。
2013年、棺をセルビア・トポラ近郊オプレナツの聖ジョルジェ教会にあるカラジョルジェヴィチ家の大霊廟に改葬することが決まった。1月にベオグラードの空港に到着し、5月26日、妻アレクサンドラや母マリヤ、末弟アンドレイの棺とともに改葬された。息子アレクサンダルがセルビア王位の継承者である。
同じ年に亡くなった人物
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