HISTORICAL PERSON · 1970年没

ハインリヒ・ブリューニング

1930年から1932年に世界恐慌下のドイツで首相を務め、大統領内閣の先駆けとなった。緊縮政策で失業が増えて支持を失い、辞職した。

生涯
1970年没
死亡地
アメリカ合衆国(バーモント州 / ノーウィッチ)
出生地
ドイツ連邦共和国(ミュンスター)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(バーモント州)

伝記

ハインリヒ・ブリューニングは、1885年11月26日、ドイツのミュンスターに生まれた政治家で、ヴァイマル共和政末期の1930年から1932年にかけて首相を務めた。酢の工場の経営やワインの販売をしていた父は保守的なカトリック教徒だったが、ブリューニングが一歳のときに死去し、兄が父の代わりに大きな影響を与えた。故郷のギムナジウムを卒業後、ミュンヘン大学で法学を学んだが、1906年にシュトラースブルク大学に転じて、哲学・史学・ドイツ語に専攻を変えた。その後イギリスに渡り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済学を学んだ。1913年にボンへ戻り、その二年後に経済学博士号を取得して、当時として異例に長い学業を終えた。

卒業と同時に軍に志願し、機関銃部隊の少尉として第一次世界大戦に従軍した。1918年のドイツ革命には、ナショナリストとして反対し、のちに首相となってからもそれを公言していた。復員後は研究や教育の道に進まず、1919年からカトリック派の政治家を支援し、復員軍人の就学や就職を支援した。1924年に国会議員に初当選して中央党の財政政策のスポークスマンとなり、1925年には所得税を十二億ライヒスマルクに限る「ブリューニング法」を提出した。きわめて控えめで禁欲的な人物だったが、専門知識で政治家としての声望が高まり、1929年に党議員団長に就任した。

1930年3月、ヘルマン・ミュラー首相の退陣後に、国防次官クルト・フォン・シュライヒャーの勧めもあり、ヒンデンブルク大統領から組閣を指示された。直面したのは世界恐慌による財政危機で、緊縮財政の案は議会で否決された。ヴァイマル憲法第48条を根拠に法案を通したが、社会民主党、共産党、ナチ党が議会の多数でこれを覆し、ヒンデンブルクは議会を解散した。総選挙ではナチ党と共産党が躍進し、ドイツの格付けが暴落して外国からの投資が引き揚げられた。以後は六十二もの法案を緊急立法で通過させ、緊縮財政とデフレ政策を進めたが、外国も関税を上げたため効果はなかった。失業者は六百万人を超えたが、1932年のローザンヌ会議で賠償は減額された。

しかしヒンデンブルクはもはや支持を失っていた。1932年4月に大統領に再選されたが、ヒトラーに辛勝したことで自尊心を傷つけられ、右傾化した。ブリューニングは東部の農地を失業者に分配する緊急立法を提出したが、地主層の激しい攻撃を受け、自身も東部の荘園主であるヒンデンブルクに署名を拒絶された。「ゴールまであと百メートルだ」と議会で演説したばかりの5月30日、辞表を提出した。独身の彼には首相官邸以外に家がなかった。後任にはフランツ・フォン・パーペンが任命された。

1933年にナチスが政権を握ると、3月に国会議員に当選し、全権委任法には反対だったが、中央党議員団の分裂を避けるために賛成した。5月に中央党党首となったが、7月には党が自主解党に追い込まれた。1934年5月、粛清の対象に挙がっているとの情報を得てドイツを脱出し、スイス、イギリスを経て、アメリカへ渡った。1937年にハーバード大学の客員教授となり、1939年から1952年まで行政大学院の教授を務めた。1938年にはアメリカ芸術科学アカデミーの会員にもなっている。戦後はケルン大学で政治学を教えたが、アデナウアーの西側同盟政策に不満を持ち、アメリカへ戻って回顧録の執筆に従事した。1970年3月30日に没した。歴史家は、彼を「共和国の最後の防波堤」と見るか「共和国の葬儀屋」と見るかで議論している。

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