伝記
ジョン・ロデリーゴ・ドス・パソスは、1896年1月14日に生まれたアメリカ合衆国の小説家、画家である。父ジョン・ランドルフ・ドス・パソス・ジュニアはマデイラ諸島からのポルトガル人移民の子で、弁護士だった。母はバージニア州ピータースバーグ出身のルーシー・マディソンで、ドス・パソスは非嫡出子として生まれた。両親が結婚したのは1910年で、父が彼を自分の子として認知したのは、亡くなる1年前のことで、それまではジョン・ロデリーゴ・マディソンと名乗っていた。それでも教育は申し分なく、1907年にコネチカット州の名門校に入学し、個人教師とともにヨーロッパや中東を6か月旅して、古典美術や建築、文学を学んだ。1912年にハーバード大学に入り、1916年に卒業すると、スペインへ美術と建築を学びに行った。
ヨーロッパで第一次世界大戦が始まると、友人のE・E・カミングスらとノートン=ハージェス救急隊に志願し、パリと北イタリアで運転手として働いた。1918年にアメリカ陸軍の医療科に編入され、戦後はパリに配置されて、ソルボンヌで人類学を学んだ。1920年に最初の小説『一人の男の入門 1917年』を出版し、「失われた世代」の一人と見なされた。1925年のニューヨークの生活を扱った『マンハッタン乗換駅』では、意識の流れの実験的な技法を導入し、商業的にも成功を収めた。
そのころ、ドス・パソスはアメリカを、金持ちと貧乏人の2つの国家と見るようになっていた。世界産業労働組合について好意的に書き、サッコ・ヴァンゼッティ事件では、二人の死刑をやめさせるため、アメリカやヨーロッパの著名人と連帯した。1928年には社会主義の体制を学ぶため、数か月ソビエト連邦を旅行した。スペイン内戦が始まるとヘミングウェイとともにスペインへ行ったが、共産主義運動についての考えはすでに変わり始めており、ヘミングウェイらと訣別した。後にヘミングウェイは『移動祝祭日』の中で、金持ちの友人を連れてきて自分の愛する地を汚染したとして、ドス・パソスを「ブリモドキ」と呼んで非難した。
代表作は『U.S.A.』三部作で、『北緯四十二度線』(1930年)、『一九一九年』(1932年)、『ビッグ・マネー』(1936年)から成る。新聞の切り抜き、作者の意識の流れ、登場人物それぞれのドラマを組み合わせ、20世紀初頭のアメリカ合衆国を、虚実を織り交ぜた実験的な手法で眺望している。アメリカの政治と経済に対する見方はとても悲観的で、どの登場人物も、自分の理想を保ち続けることができない。1930年代中期には共産主義を非難する記事を書き続け、『ビッグ・マネー』では、理想主義的な共産主義者が党の集団思考によって徐々に消耗し、ついには滅ぼされる。ドス・パソスは右傾化し、1950年代初期にはジョセフ・マッカーシーを賞賛した。それでも、ヨーロッパは彼の文学への貢献を認め、1967年にはアントニオ・フェルトリネリ賞を贈った。評論家の間では、『U.S.A.』以降、作品の質が低下したという意見が一致している。
第二次世界大戦中の1942年から1945年には、戦争特派員として働いた。1947年、交通事故で18年間連れ添った妻キャサリンが亡くなり、本人も片目を失った。1949年にエリザベス・ホルドリッジと再婚し、翌年に娘のルーシーが生まれた。画家でもあり、自作の表紙や挿絵を多く手がけ、400点以上の美術作品を残した。42作の小説のほか、詩、エッセイ、戯曲もある。亡くなるまで執筆を続け、1970年9月28日、ボルチモアで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- 岩谷俊夫 (1970年没)
- アンナ・ルイーズ・ストロング (1970年没)
- ベイジル・リデル=ハート (1970年没)
- ジョニー・ホッジス (1970年没)
- アルチュール・アダモフ (1970年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコライ・ボルコフ (2018年没)
- ブルックス・ロビンソン (2023年没)
- フィッツ=ジェイムズ・オブライエン (1862年没)
- Daniel Brewster (2007年没)
- ジム・バーンズ (2002年没)