伝記
エドワード4世は、ヨーク朝のイングランド国王(在位1461年〜1483年)である。ただし1470年から1471年にかけて数か月の中断がある。1442年4月28日、王位継承権者ヨーク公リチャードとセシリー・ネヴィルの次男としてフランスのルーアンに生まれた。兄が早世したため実質的な長男であり、幼くしてマーチ伯に叙され、少年期の大半をウェールズ境界地方のラドロー城で過ごした。ヨーク家は、王家のランカスター家を除けば、エドワード3世の唯一の男系子孫にあたる家柄だった。
対仏戦争の主戦派だった父は、ヘンリー6世が重用する和平派のサマセット公と権力を争い、1455年に第一次セント・オールバンズの戦いを起こして薔薇戦争に突入した。1459年、ラドフォード橋の戦いでヨーク軍が敗れると、エドワードは母方の伯父ソールズベリー伯と従兄のウォリック伯とともにカレーへ逃れ、翌1460年7月にイングランドへ逆上陸して、ノーサンプトンの戦いでヘンリー6世を捕らえた。しかし同年12月、父と次弟のラトランド伯がウェイクフィールドの戦いで戦死する。父の王位請求権を継いだエドワードは、1461年2月のモーティマーズ・クロスの戦いでランカスター軍を破ってロンドンへ進み、市民の歓呼を受けて入城し、3月4日に即位した。続く3月28日のタウトンの戦いでは決定的な勝利を収め、ヘンリー6世は1465年に捕らえられてロンドン塔に幽閉された。
即位当初はネヴィル家の指導に不満を抱かなかったが、1464年、リヴァーズ卿の娘でランカスター派騎士の未亡人だったエリザベス・ウッドヴィルと秘密に結婚したことが、身分違いとして貴族の不評を買った。この結婚は、フランス王ルイ11世の義妹との縁組を進めていたウォリック伯の面目を失わせた。王がウッドヴィル一族を重用し、親仏のウォリック伯に対しブルゴーニュ公との同盟を望んだことで対立は深まり、ウォリック伯は王弟クラレンス公ジョージと結んで1469年に反乱を起こし、王は捕らえられてウォリック城に幽閉された。1470年9月にはネーデルラントへ逃れ、ヘンリー6世が復位したが、亡命中の1470年11月には王太子エドワードが生まれた。義弟のブルゴーニュ公シャルルは当初援助を拒んだが、最終的に軍資金を出した。1471年3月、末弟グロスター公リチャードとともに上陸した。4月にロンドンへ入り、バーネットの戦いでウォリック伯を敗死させ、5月のテュークスベリーの戦いでランカスター軍にも勝利した。ヘンリー6世はロンドン塔で殺害され、王位は安泰となった。
治世後半には、1475年の短期の対仏戦争の結果、ルイ11世から年2万フランの年金を受ける条約を結び、議会を開かず課税を避けることができた。1478年にはクラレンス公が処刑された。1482年にルイ11世がイングランド王女エリザベスとフランス王太子シャルルの婚約を破棄して年金の支払いを止めると、王は再征の準備を進めたが、その最中に病に倒れた。晩年は不摂生に陥って肥満し、多くの女性と浮名を流した。ルイ11世に仕えた廷臣コミーヌは、彼を世界中で最も美しい貴公子と評した。1483年4月9日にウェストミンスターで急死し、ウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂に葬られた。王位は12歳の長男エドワード5世が継いだが、3か月もたたない6月26日、叔父グロスター公によって廃位され、代わってリチャード3世として即位した。エドワード5世と弟はロンドン塔に幽閉され、おそらく殺害されたとされる。長女エリザベスは、リチャード3世を倒したヘンリー7世と結婚した。
同じ年に亡くなった人物
- Pero Pardo de Cela (1483年没)
- エリザベート・ド・ヌヴェール (1483年没)
- ルイ11世 (フランス王) (1483年没)
- リチャード・オブ・シュルーズベリー (ヨーク公) (1483年)
- ギヨーム・デストゥトヴィル (1483年)
同じ地域に関係する人物
- イアン・リチャードソン (2007年没)
- エレン・ウィルキンソン (1947年没)
- サミュエル・テイラー・コールリッジ (1834年没)
- アーサー・キネアード (1923年没)
- マーク・ロブソン (1978年没)